ANNEX 記事(2004年9.10月分)

過去LOG

ひっぷらほっぷら

音楽に関しては
衝動買いというのが明らかにあります
CDショップの試聴ようのヘッドホンをかぶって
3分で前においてあるCDをキャッシャーに持っていくという
あれです

今日、たまたまちょこっと立ち寄ったWaveの某店で
まさにそれをやってしまいました

ひとつは加藤ミリアのMAXIシングル・・・
最近の歌い手では平原綾香の歌唱力もすごいけれど
耳にニュアンスがしっかり入ってくるという点では
加藤ミリアの方が上かもしれません
しかも心地よい
すこしハスキーなのですが同時にのびやかな声をお持ちで・・・

二つの曲をいくつにもアレンジして6トラックの構成なのですが
いずれのアレンジも〜風という領域を超えて
ひとつの作品として成立しているのもすごい
それは、耳がこえた日本人に対して
海外の同種の音楽よりさらに魅力的な音を
日本人がつくれることを
再確認した瞬間でした
言葉の使い方も日本語と英語がミックスして
どちらの言葉でも表現できないニュアンスをあらわすので
日本語がさらに広がった感じで・・・

日本語が広がったといえば
同時に衝動買いした「Bennie K」のラップも
すごくよくて
昔、ラップの日本語といえば
まるで四文字熟語をならべたというか
ちょっとのりのよいお経のようなイメージがあったのですが
Bonnie Kに登場するラップは
日本語と英語のミックスでありながら
日本語としての広がりを持ったものであり
なおかつ、個性的ですらあり・・・
なんというか、ラップの文化は完全に日本の言語にとりこまれた
イメージさえあります

たとえば芝居でも、昔の翻訳劇が鴻上尚史に揶揄されていたのにたいして
「ママが私にいったこと」では登場人物の名前があちらのものでありながら
日本語として感情的な部分まで翻訳されて観客に
違和感をあたえなかったように
ラップの歌詞も聴き手がリラックスしたまま
日本語できちんと処理がかなうまで進化したということでしょうか・・・

今日買った2枚のシングルは
いずれも
言葉という意味でもこれまでの領域を抜けたシングルで・・・

なにかこれからの日本の歌い手達の作品にふれるのが
楽しみになってしまいました

まあ、元々HIPHOP系の音楽はだいすきだったのですが・・
黒人ラッパーが奏でるHIPHOPにたいして
若い日本人の創意にみちた
音楽、勝手に名づけさせていただければ
ひっぷらほっぷら、それが自然に日本に定着していくのは
やっぱり、さまざまな才能が日本の音楽シーンに
満ちているからでしょうね


とりあえずは芝居以外にも人生の楽しみができたということで・・・
人生楽しみが多いに越したことはないですよね!

R−Club

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夢で会いましょう

最近、私が楽しみにしている番組のひとつに
日曜日の夜のNHKアーカイブスがあります

要は昔の番組を再放送するだけの
とてもシンプルな企画なのですが
これがとてつもなくおもしろい
いろんな伝説になった番組を一本丸ごと
見ることができるわけですから・・・

昔の番組の一シーンを集めたような企画はたくさんありましたが
なかなか番組一本となると見る機会がなくて・・・
ましては1960年代のものとなると
めったにそんな機会はないわけで・・・
でもやっぱり一本通してみないと番組のディテールなんてわかりませんものね

NHKの番組、しかもそんなに昔の番組となると
どこか教条的でまちがってもユーモアなんてないようなイメージですが
「夢で会いましょう」は全然違っていました
まず、どこかお洒落なのです
24日に再放送した分は受付がテーマでしたが
コントののりもなかなか良くて
今のコントと比べてみてもそんなに時代遅れの感じが
しないのがすごい

デパートの受付に黒柳徹子が座って
番組を進めていくというような場面もあって
これはこれでなかなか歯切れがあって・・・

九重佑三子・坂本九・谷幹一・渥美清なんて
いまでは伝説になったり場合によってはあちら側に行かれた人々が
みんな生き生きとしていて・・・

でも、一番感心したのは
中村八大が演奏するピアノの粋なこと
楽器売り場で演奏するというような設定なのですが
セットもある意味チープではあるけれど
ウィットが効いていてお洒落で・・・

昔、父に戦前の日本って毎日が暗い雰囲気で大変だったのではないかと
聞いたら、実はのんびりとしていて楽しい時代だったといわれて
驚いたことがあるのですが
モノクロテレビに機材もいまとは比べ物にならないくらいに悪い
むかしでも、テレビはとても洗練されて粋だったというのは
ちょっと意外な感じがしました
昔を今の感覚でみるのと、現実にそこで生活している感覚というのは
実はちがったりするのですね・・・

そう、あと思ったのは坂本九や九重佑三子の歌、
いまよりずっとダイレクトに思いを伝えていたのですね
ウェデングドレスや一人の人を思う気持ちが今より
ずっと新鮮に思えた時代だったのかもしれませんが・・・
彼らの歌は、まるで摘みたての果物をそのまま口に運ぶように
みずみずしく、ちょっと甘酸っぱく感じだことでした

彼らがその後にたどる運命、
渥美清は「フーテンの寅さん」という当たり役をもらい
坂本九は日航機事故で天に召され
黒柳徹子は「ザ・ベストテン」で大活躍後国連の活動にたずさわる・・

今、舞台で何かを演じている人々にはどんな人生がまちうけているのでしょうか
そして彼らを見つめる客席の人々の人生は・・・?

劇場は針の穴のようなものだという比喩もあります
観客と役者が一点に集まって、同じものを共有し
また離れていく場所という意味だそうですが
テレビの番組もおなじなのかもしれませんね・・・
その時間、テレビの前にいる人々は
何かを共有して、またそれぞれの生活に別れていく

話は違うのですが、番組のコントとはいえ、番組の最後に
デパートの受付嬢役の黒柳徹子が
特売場はと谷幹一にきかれ
きっぱりとここですと言い切ったのにはわらった。
もう十年も売れ残っているというのはアドリブのような
気もしますが・・・・
番組としても良く出来た落ちでした・・

なんかああいうベタなギャグをアドリブ込みで
堂々と出来る時代って
放送に対して妙なストレスが
少なかった時代なのでしょうね

「夢で会いましょう」はいろんな意味で
昔の日本のイメージを払拭してくれる
ちょっと小粋な作品でした


R−Club

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ストリップの空間

グリングの「ストリップ」、
Theater Topsのような小さな小屋では
もったいないような名作です
とにかく脚本が非常に良く出来ていて
しかも、いかにもよく出来ているという感じではないところに
この劇団のすごさを感じます

一番感心したのは
ネタバレになりますが
桜子が鏡越しに女性自身を元恋人に晒すことで
自らの心に無意識に羽織っていた何かを
剥ぎ取る(ストリップする)シーン
ある意味かなりきわどいシーンでもあるのですが
そのひと時に舞台を満たす元恋人どうしの
まとう物のないこころのふれあい・・・
非常に秀逸なシーンだったと思います

そのシーンにいたるまでにも
さまざまなエピソードの連鎖から
登場人物の心に羽織っていたものが
剥ぎ取られていく部分がいくつもあって・・・
しかも剥ぎ取られることによって晒される
登場人物の想いが言葉で語られることがないのに
観客にしっかりと共鳴していく
役者の演技力と脚本家の勝利だと思います

役者のなかでも桜子さんの演技には感心しました
彼女の演技には感情の起伏に対するしっかりとした
説得力があって
なおかつ彼女が心にまとっているものが
しっかりと浮かび上がるような演技を見せていただきました

まあ、ストリップというのは不思議な見世物で
桜子さん演じる大阪のストリッパーの衣装のこだわりに
矢代朝子さん演じるベテランストリッパーが
「どうせすぐ脱ぐくせに・・・」という捨て台詞のようなものを
投げつけるシーンがあるのですが
桜子さん/矢代朝子さん、それぞれの演じるストリッパーの
考え方のようなものに真実が含まれているのが面白いところです

恥ずかしながら、私も昔はたまにストリップを見にいったりしました。
あの、一種場末の雰囲気、
衣装、ライト、踊り子さんの舞台化粧・・・
見せかけの華やかさの中で
彼女達がみせるのは、女性の女性たる証ともいえる
乳房であり、時には法に触れる陰部であり・・・

でも、もっと不思議なのは、女性達が持つ芸によって
晒される乳房や女性自身の美しさがまったく違ったりする
また、歳がばれるようなお話なのですが
昔、ルーシーサタンというストリッパーのお姉さんがいました
最初に彼女の舞台をみたのは偶然だったのですが
その踊りのあまりの美しさにひかれて
やがて、彼女の名前を、三流新聞の広告にみつけると
惹かれるように見に行くようになりました
フラメンコを基調としたベットショーもない舞台なのですが
彼女が舞台にたつと場内はそれだけで静まりかえります
ストリップ劇場に満ちていた淫猥な空気が
一瞬にして消えてしまうのです
ステップを踏む彼女の額に浮かぶ汗の美しさ
整った形の乳房が揺れるたびに
息を呑んでしまうような濃密な女性のかおりが
パヒュームのかおりとまじりあってほとばしって・・・
やがて、最後のナンバーで彼女がオープンといわれる
演技(脚を広げ股間をひろげて陰部を観客に見せる演技)をするとき
彼女の指の間にあるものは劣情を催させるものではなく
心から美しく思える神の造形でした

踊りがそれほどすごくなくても
笑顔だけで雰囲気を変えてしまう踊り子さんには
その後何人かめぐりあいました
昔、すごく印象にのこったのが
九条OSに出ていた夏目久美子さん・・・
彼女の笑顔はそれだけで人の心をうごかす何かをもっていた
もう1x年前の話ですけれどね・・・
あとフラワーミミさんという踊り子さんにも
同じような力がありました
彼女は舞台参加型のステージまでこなした踊り子さんですが
その行為の最中であっても猥雑な印象はまったくなかった
女としての成熟自体が芸のように思えました
単純にあそこを見せればそれで男達は満足するのに
さらに芸で、単純な男達の劣情の
もっとに向こう側のようなものまで
満たしてくれる彼女達に
なんどもストリップの真髄を感じたものでした

グリングの舞台にはそのストリップの、ある種の真実が
きちんと含まれているところが見事なところで・・
自分の芸を潮時としてストリッパーへの未練と元恋人への思いを
ラストステージとしてたった一人の観客に晒す桜子さん演じるストリッパーにも
生活のために演じると言い切って演劇に準じてなくなった
旦那の未練を消そうとする矢代さん演じるストリッパーにも
ストリップの本質がしっかり描かれているような気がして・・・
それゆえ表面的には淡々とエピソードが
羅列されるようなトーンで描かれる
この作品の持つ、多層的な部分というか深さに感嘆したことでした

なんというか、あたたかくてちょっと寂しい気持ちで家路につける作品って
いいですよね・・・

グリングの今後の作品、結構楽しみです

R−Club
ー上記「ストリップ」のプレーンな感想を掲載中です
是非ごらんくださいませー

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Swing Girls

前にも書いたと思うのですが
私がたまたまNYに遊びにいった
2001年2月当時、ブロードウェイ44丁目では
SwingとFosseという二つのミュージカルが向かい合わせの劇場に
かかっていて
両方ともフィナーレのナンバーは
ベニーグットマンでおなじみの「SingSingSing」でした
しかも両方ともオンステージバンド、
ジルバのダンスと極上のコーラスに彩られた「Swing」に対して
Bob Fosseの極上の振付で一気に見せる「Fosse」
ある意味対照的でありながら観客を惹き込むパワーという点で
共通した舞台でしたが
特にオンステージバンドが本当にときめくような
魅力を持ったフィナーレということで印象を残した舞台でもありました

スタンダードといわれるジャズの名曲たちのなかでも
「SingSingSing]というのはビッグバンドの魅力を
一番引き出しやすい作品なのかもしれませんね
ワクワクするようなイントロに
覚えやすいメロディ
ソロが次々にかぶさってくるたびに観客は酔いしれ
ドラムのソロ(定番のライトシンクロとあいまって)に
観客の心は高揚していきます
実際のところサックスのパートが立ち上がるだけで
もう観客の気持ちはステージにいってしまう

今、けっこうヒットしている映画、
「Swing Girls」のクライマックス、音楽祭のシーンでも
使われているのが「SingSingSing」で
これがまたかっこよいのです
制服(セーラー服)と金管楽器の輝きがアンマッチで
サックスが立ち上がるシーンでは
いつもより倍ときめいてしまったり・・・
トランペットのパートがくるっと楽器まわしを決めるのを見ると
彼女達の笑顔に自分の心が重なってしまう気がする
ドラムソロのところでエピソードをからめてライトが絞られるのも
いいし・・・・

もともとよく出来た話というか映画なのです
ドミノ倒しのように話がすすんでいくのが小気味よいし
台詞だけでなく仕草や行動でSwing Girlsたちのキャラクターが
きちんと語られていくので
観客は知らず知らずのうちに彼女達の目線で物語をみることが
できるようになっている
ネタバレになるのであまり書きませんが、
おもわずうふっとなるような細かい表現がたくさんあって
だから猪のようなちょっと現実離れしたエピソードでも
浮かないで物語のなかにしっかりと入り込んでくる。
猪の部分はバックに流れるサッチモがとてもよくて
この辺のセンスのよさが
スクリーンのベタなギャグにも輝きをもたせて・・・
彼女達の演奏がうまくなっていく過程って
彼女たちがBigBandに出会うエピソードにくらべると
驚くほど淡白にしか描かれていないのですが
彼女達のコアにある、なんというか、真摯さのようなものが
きちんと表現されているので
(観客はまるで自分のなかにあるマジな部分に重ね合わせる
ようにスクリーンの彼女達のジャズへの憧れを
信じてしまう)
彼女達の演奏の上達はある種の必然として受け入れらるし
彼女達が必然の結果として発表の機会を得られることに
素直な喜びを感じたりもします

で、ラストシーン・・・
あわてて会場に入ってきて
みんなが動揺したまま演奏を始めようとしているときに
トロンボーンの女性がそれを制してチューニングをはじめる
シーンがよい
彼女達ひとりひとりの表情がすーっと落ち着きを戻すところが
非常に秀逸な表現で
それが、「ムーンライトセレナーデ」から「SingSingSing」への
至福の時間を単なる演奏シーンにせず
彼女達ひとりずつの個性がひとつの演奏にまとまっていき
演奏が輝いていくための
伏線にすらなっていたように思います

平日の最終に見たのですが客席はほぼ満杯でした
(日比谷シャンテ=時刻指定定員制)
始まる前の予告編のひそひそ話に耳ダンボにしていると
後ろの席の女性ふたりづれはリピーターとのこと
たしかに前半の学生時代のかっこわるいけれど
それでもうふっと笑えるようなエピソード達と
最後の達成感とかっこよさには
人をはまらせる何かがあります

出演者の今後の活躍も楽しみだし
(活躍してくれるとうれしいと素直に思ってしまう)

矢口映画、ちょっと目がはなせませんね・・・

R−Club


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POPな世相批判NHK風(東京の山賊を見て)

枕話のようで申し訳ないのですが
芝居を一本見損ないました
ポツドールの「ANIMAL」・・・
台風が関東を直撃した9日は悪夢でした。
一応台風の様子をぎりぎりまで見切りながら
ポツドールを見に
三鷹へ向かおうとしたのですが
駅に着いたときには電車がすでに止まっていました
まるで神の意思のごとく私は劇場にいけなかったような
気がします
かなりくやしい。2800円以上に悔しいです。
えんげきのぺーじは賛否両論盛り上がっていますしね・・・

さて、話は変わって
昨日(10日)の夜、NHKで「東京の山賊」という1970年のドラマを
再放送していました。NHKアーカイブという番組です。
当時どのようなシチュエーションでこの放送があったのかは
わからないのですが、いずれにしても
これがけっこうすごくて引き込まれてしまいました
もともとは同じ番組で最初に紹介された「日劇」の歴史をみたくて
チャンネルをまわしたのですけれどね・・・

そもそも、NHKというところは
時としてびっくりするほど先を行ったドラマを作ります
かんがえてみれば「ひょっこりひょうたん島」なんていうのも
子供番組をはるかに超越していたわけで・・・
幼稚園の園児までを対象とした番組に方程式がでてきましたからね・・・
国営放送というのはある意味スポンサーの意向など考えなくてすむわけで
その意味では物をつくるのに不自由さと自由さを両方兼ね備えているのでしょうけれど・・・
そういえばあの「モンティパイソン」を作ったのもBBCというイギリスの国営放送ですしね。

話は、車社会への警鐘のようなもので
それ自体はいまから見れば陳腐といえないこともないのですが
ある意味確信犯的に陳腐な内容をとても斬新に
それを今から考えると結構豪華なスタッフで
作っているともいえないこともない・・・
アニメが虫プロっていうのもすごいのですが
その他のスタッフ・キャストもけっこう今から考えるとすごいものがある

主演が関口宏と由美かおる・・・
由美かおるはあのころまだ、20歳前後ではなかったでしょうか・・
今の彼女は水戸黄門で入浴シーンを見せる熟女という
イメージがつよいのですが
当時は歌って踊れる西野バレエ団のスターだったわけで
なんていうのだろう、冷静に彼女がどういう女性だったか
なんかしっかりと理解ができた気がしました
きれいというのとはちょっと違うのですけれど
でも間違いなく魅力がある女性・・・
中尾ミエなんかも今から思えばスッピンに近い素顔で出ているのですが
彼女の若いころにもある種のパワーがあって・・・
そうそう、園まりも看護婦役ででていたのですが
彼女は今見ても本当にきれいでしたね・・・
由美かおるや中尾ミエがかわいいとすれば
園まりは美しかった

当時まだ、大人とはいえない自分がみたそれらの女優さんたちの印象が
今、当時の映像に再対面してみると
驚くほど異なっているのに自分でもびっくりしてしまいます
所詮はガキの憧れで見ていた当時のタレントさんを
当時の彼女達よりはるかに年上になってからLiveのように見ると
その違和感のようなものに驚かされます
歳をとるというのはそういうことなのでしょうか?
まあ、タレント側でも30年先にそんな評価をされるなんて
当時はまったく考えていなかったでしょうけれど・・・
関口宏もまさか30年後にグルメ番組で酒をのみながら司会をしているなんて
思わなかったでしょうが・・・

番組自体もその感じがすきな人にはたまらないようなには
’60から’70のポップな雰囲気がいっぱい
あのころのお洒落感覚というか、こじゃれたライフスタイルのようなものが
伝わってきます
サンドイッチのパンの耳を捨てないで一緒に恋人のところに持ってくる感覚
狂言に水虫をつかう(水虫線香で笑いを取ろうとするセンス)
物語のシンプルさ・・・
それはSweet Charityが持つある種の短絡さというかシンプルさと
通じるものがあって・・・
そしてシンプルさがピュアな人間くささに結びついているところも・・・

あの時代、私がまだ、ガキだった時代を総括するには
こんなおじさんの私でもまだ若すぎるのかもしれませんが
映像が当時をまるでライブのように放送するたびに
私は美術館の彫刻を反対の角度からながめるように
不思議な新しさにうれしくとまどってしまうのです

全然話は違いますが
永遠のLive感といえば、あの新感線のアカドクロムービーは
結構貴重かもしれませんね・・・

うん、あの2500円は安かったかも・・・
なにをいまさらなのですが・・・
R−Club


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Sweet Charity のすばらしさ

歳がばれるのであまり言いたくはないのですが
Sweet Charityは1985年にブロードウェイで
見ています
当然Gwen VerdonではなくDebby Allenのやつ
プレビューでみて、もう圧倒されて・・・

そのころはBob Fosseの名もそれほど知っているわけではなく
それだけに「Big Spender」の衝撃はすごかった
あの時見た「The Aloof」というナンバーは
私が生で見たダンスナンバーのなかでも多分一番だろうと思っています

前の記事でも書きましたが、
映画版の「Sweet Charity」がDVDになりました
Amazonで2000円強で購入したのですが、
これが超おすすめ・・・
舞台と映画、どちらがよいかといわれると
やっぱり舞台の方が軍配は上がるわけですが
でも、DVDにはとんでもない特典映像がいくつもついている

そのひとつに、「ハッピーエンド」バージョンの
スウィートチャリティというのもあって・・・
当時エンディングには2つのバージョンが作られていて
Bob Fosseはそのなかでよいほうを選んだということなのでしょうが
なんか両方見ると一層この映画の終わり方の秀逸さがわかって
おもしろかった
まあ、そりゃ、ニールサイモンが脚本を書いているわけですから
ハッピーエンドバージョンの幕の引き方だって
すばらしいのですが
採用された方の終わり方は、この物語の普遍性と
主人公へのBob Fosseの愛着のようなものが溢れていて・・・

そもそも、この作品には大ヒットのブロードウェイミュージカルの映画化という
単純な展開をはるかに凌駕した部分があって・・・

主人公と相手役のふたりがハッピーエンドで結ばれてほしいと思うのはごく自然な心情かと・・・
でもね・・・、ネタバレになってしまうからオリジナルの
エンディングは書かないけれど・・・
それはそれでよく出来たハッピーエンドバージョンよりも
オリジナルのエンディングのほうがはるかに広がりがあるのです

ニールサイモンの作風は
エンディングだけでなく随所に満ちていて
単なるミュージカルを素敵な
物語にまで昇華させている

深夜営業のビストロみたいなところで
チャリティとオスカーが
お互いの行き違いを修正していく光景などは
コンサバティブと思えるほどまっとうで
でも役者達の言葉の間に
ふきだしたくなるような間があって
ぐいぐいと引き込まれていく
2つのテーブルの座り方や
攻守?の取り方も・・・
あれってミュージカルというよりも喜劇の王道ですよね
しかもよくできた会話で今見たって全然陳腐化していない・・・

こまかい感想などは別の記事にかきますが
一部をかじっても通してみても
本当に見ごたえのある映画だと思います

アマゾンで注文してから中一日で着たのにも驚いたけれど
こういう映画が作られていたアメリカって
まさにgood old daysなのかもしれませんね・・

うん、よいお買い物でした

R−Club

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演劇を映像で(一部改訂)

劇団新感線を最初に見たのは
「スサノオ」でした。
当時は青山円型劇場という
いまでは信じがたいようなところでの舞台でした
手作り感がたっぷりで・・・
今とやっていることの根っこは同じなのですが
劇団の進化とか成長というのはそういうことなのですね

最近はチケットがとりにくいのと価格が高いので
元はとれるだけの価値があるとはわかっていても
あまり見に行く機会がなかったのですが
たまたま、今年の春に公演があった
「髑髏城の7人 アカドクロ」の舞台を映画にしたものを
銀座でやっているので見てきました
作品の映画化ではないです。舞台をそのまま撮影して
編集して、映画館で見せるという試みです
だから舞台上の制約的なものもかなり残したままでの映像表現です

「髑髏上の7人」はこれまでにも2回みているので
親しみは多いのですけれどね・・・
一度目は池袋の西口でのテント公演でみたし
2度目は97年に沙霧をみっちょん(芳本)がやっていたのを
覚えています

極楽太夫役は一回目が羽野アキ、2回目が高田聖子だったかな・・・
たしか・・・

話し自体がよく出来ていて・・・
しかも、役者のキャラクターに当てて書かれた部分と
コアになる創作部分のバランスがよくて・・・
で、バージョンが変わるごとに背骨を残しておきながらの微調整の部分がたまらない
今回の映像でも、2004年バージョンに関してそのへんのことは十分に伝わってきて
楽しめました

ただ、舞台と映像の違いが残るのもまた事実で・・・
悪いことばかりではないのですけれどね・・・

一番思ったのは、シーンの持つ強さというか印象が
生の舞台と映像にして編集をかけたものではかなり違うということ・・
映像の場合は作り手が見せたい部分が強く明確になる反面
舞台全体の空間としての機能、
無意識に観客が見て得られる何かが
削がれているような気がする
舞台を映像を見ていても、見る前に危惧していたような
強い違和感はないのですが
実は舞台の空間のなかで
自然に観客が視線を集中させる部分が
観客にはなにげに強制されているわけで・・・
映像であり、視覚と聴覚以外の(空間としての)情報を
銀幕上では表現できないのだから
しょうがないといえばしょうがないのですが・・・

それと、けっこう強く感じたのは
観客が受け取るイメージの強さは
実は映像のほうが強いのですが
全体の繊細さには欠けるということ
たとえば緩やかに流れる時間にただよう気配のようなものの表現が
映像ではできず、その分視点を強制的に舞台の一点にひっぱることで
ニュアンスや舞台上の要点を表現していくような感じになります
一方で、作品の骨格となる部分は映像の方が明確に伝わる部分もあって・・・
たとえばストーリー自体はむしろ映像で見たほうが明確になっているような
気もします。

また、アクションシーンも映像の方が鮮明に動きが見える気がします
ただし、アクション時に新感線の舞台がもつ
空気の重さや光の美しさなどは
映像から感じることができませんでした

9月下旬に「Sweet Charity」の日本版DVDが出て、
その中の特典映像で
BoB Fosseは舞台と映画の作成上の違いを
明確・簡潔に述べていますが
その違いをある種乗り越えるチャレンジにもなるような今回のこころみは
あくまで、同じ作品の同じ空間の記録が
媒体の特性からどのように観客をとりこむのかの
良い実験だったような気がします

古田新太氏が「映像だからわくわく感が低い」みたいなことを
開演前の場内へのご注意(録音)で言ってましたが・・・
決してそんなこともなくて・・・
後半髑髏城に主人公が入り込んでいくシーンは
結末を知っているくせにけっこう浮揚間のようなものがありました
ただ、映像の中の舞台は生の舞台上と同じ物ではけっしてありえない

舞台を映像にして見せることの功罪を考えるのは
正直なかなか難しいですが
舞台を映像化することによって変化する
さまざまな要素への対応や
むしろそれらを逆手にとったような使い方が
ノウハウとして蓄積されていくと
おどろくほど観客に新たな感動を与える
なにかが出てきそうな可能性は十分あると思います
そうなれば舞台という一次的な素材をもとに
新しいジャンルの作品が創作されリメークされて
私達を十二分にたのしませてくれるのかもしれません

ところで、話はぜんぜん違うのですが
映画館って劇場にくらべて本当にゆったりとしていて・・・・
演劇と比べて映画はすわり心地のよい場所でみることが
できるのですね
あたりまえのことにいままで気づきませんでしたが
映画館で作品をみながら、リラックスしていく自分に
ちょっとびっくりしてしまいました
あんなに結ったりいすを置いたら
舞台の場合距離が遠くなりすぎて・・・
これも映像の隠されたメリット???

まあ、黎明期にはいろんな発見があるものです

R−club

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セピア19xx

一週間ほど前になるのですが
銀座ソニービルのショーウィンドウに
素敵な絵が飾られているのをみました
どこかでみたような・・・
柔らかく丸いきりえのようなタッチの絵

近づいてよく見ると
村下孝蔵のLPのジャケットの原画・・・
一度にいくつかの時間を思い出してしまいました

不思議なもので
彼の歌がプリズムのようになって
その先にまだ学生の頃の私がいた
「初恋」の歌詞のとおり、放課後の校庭に
あの人がいて・・・
メタセコイアの木の下で
友達と笑顔で何かをはなしていた・・・

秋の風がすこし冷たく感じられる頃・・・
10月・・・・夕暮れの早さにすこしさびしさが募る頃
あの人は・・・・
少女のままでそこにいた

そのころ、かなり大人びて見えたその人が
今の私には少女にしか見えず
それゆえに自らの過ごした時間の重なりが
雲母のようにかがやいて・・・・
高校時代のあの日々もまるで
いっぺんのきららに封じ込められた
光のように思えます

初めて「初恋」を聞いたとき
私はラジオをつけっぱなしにして週刊誌を読んでいた
記憶があります
窓からの風がここちよさげにカーテンをゆらして・・・
聴くともなしに聴いた歌詞が
私の前に導いたのは
空想の絵でもなく目の前のグラビア写真でもなく
まる映画の1シーンでした
もう何年もわすれていた何十秒かの光景・・・

人の記憶は
繋がっているのではなく
重なっていることに
初めて気が付いた瞬間・・・・・

想いに飢えることってありませんか?
心の密度が気づかないうちに薄くなっているとき・・・
そんなときわたしはふっと歌を思い出します
そのなかの一曲が「初恋」・・・
耳の中でサビを反芻しているうちに
雲母を薄くはがして
現実に虚飾に芝居のシーンまでが重なりあった
塊を薄いいっぺんのプラスチックの板のようにして
光の下においている自分に気づくのです

まるで「初恋」の主人公が放課後の校庭を走る少女を想うように
想いの後ろには必ず共鳴するシーンがあります

感動できるというのは共鳴できること
共鳴は積み重ねられたシーンの賜物
だから、たとえばよい芝居に感動したようなときには
何かを感じられた自分を楽しみながら
私の中に積み重ねられた時間の登場人物たち
たとえば・・・・・
そう・・・少女のままの彼女に感謝している

銀座の真ん中でちょっとぼーっと
「初恋」のジャケット原画をみながら
9月に見たいくつかの芝居の感動のはるかふもとにたたずむ
彼女に忘れていたお礼をつぶやいたことでした

R−Club

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風は積み重ねても軽いーアフターダークの感想ですー

芝居の話からはすこし離れるのですが
村上春樹の「アフターダーク」、
一気に読んでしまいました

昔、「風の歌を聴け」を読んだときの
読感(こんな言葉はないけれど)が久しぶりに
戻ってきた気がしました

うまくいえないのだけれど
軽くソリッドな感じの窓ガラスに差し込む薄曇の光で
自分の中のすこし汚れた空き部屋の壁にピンでとめられた
ずっとむかしのありふれたスナップ写真が照らされた感じというか・・

軽い・・・ちょっと違うかもしれません
間違っているわけではないのですがどこか自分の感じたものを
正確に表現しているわけではない気がします
軽いというより、重さが減じられたというか
本来ある重みが現実と喪失感に分けられたというか・・・

「風の歌を聴け」を読んだときに感じた一種の喪失感のようなもの、
階段のように規則正しい時間がふわっと盛り上がったような感じ
まだ、若かった頃、もっと幼かった頃
記憶?記憶!・・・きおく・・
夜行バスのイメージ
10代から20代に入る頃のセックス・・・
社会というもの、リアルさ
遊び、粋?、すこし置かれた距離・・・
発見する前のまだ見えていないもの
そして見た後埋もれてしまったもの・・・
世の中、大人、けだるさ、芯にあるとめられないもの・・・
缶ビールが消費されていくたびに流れる時間
当時あの感覚を表現した小説なんてなかった気がします

もちろんあれからふた昔以上たって
村上氏の物語もさまざまにふくらみ、
私も彼の作るいろんな世界を読み続けて
よいおじさんの歳になりました

多分村上氏の一番根本にある喪失感は
どの作品にも共通してあるものなのだろうけれど
村上氏が喪失感をてらすライトの色はいくつにも変わって・・・
でも、きっと村上氏は最初のすこしくすんだ色を
忘れることはなかったのだと思います

当時、初めてその色を見た私も
やがて、さまざまな表現に出会うことができて・・・
小説だけではなく、歌も演劇も時代も・・・
自分のいろんな経験に彩られたもの
未知なものの疑似体験・・・
自分でも贅沢しているな思うほど良いものも見ることができたし
いろんなことを知ることができて・・・

でも、「アフターダーク」を読んでいる間、そして読み終えたあと、
「風の歌を聴け」を読んでから今までに
自分の中で無意識に積み重ねていったコンテンツが
風のようにただそこに吹くだけの存在にすら思えてしまいました
そして、優しい喪失感に身を任せるとき
自分のなかに欠けたピースをみつけたような気がします

欠けたピースを見つけた?
違う・・・、そこに埋められるべきものに気づいただけなのかもしれません
それは何?
それが何かを表現するのはかなり難しい
ただ、匂いがあって、存在を感じられて、
すこし懐かしくて切ないもの・・・
でも、透き通ってなぜか凍りつくもの・・・

演劇からなら、もっと包括的に感じることができるような感覚だと思います
文字の方がずっとフィックスしていて、何度も確認できるのに
文学というのは時として受け手にはタフな表現なのかもしれません

風はどんなに積み重ねても風の重さ
触れるときその感覚を忘れることはないのに・・・
透きとおってただ、ひたすら、軽いのです

読み終えたあと
ちょっと、息をふっとついて、ベランダで深呼吸をして・・・
自分の前の景色をながめて
自分が村上春樹を最初に読んだときのテイストを
まるで今を見るように思い出したことでした

R−Club


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よい戯曲とは・・・

土曜日に見てきたシス・カンパニーの
「ママが私に言ったこと」は
いろんな意味で贅沢なお芝居でした

青山円型劇場というスペースは
中央の円形舞台から客席までが最大でも
6〜7列ですから役者の吐息までが直接観客に伝わるような空間

そのスペースで木内みどり・渡辺えり子に
大竹しのぶ・富田靖子までが演技をするのですから
それは見ているほうもすごいことになります

実は、その中でもほぼ真ん中のブロックの1番前の席が偶然とれまして
その迫力たるやもう・・・

一番最初に気づいたのは
女優たちがまとうパフュームの香り・・・
もちろんあの空間だからできることなのでしょうが
女性達の物語にその香りでいざなわれたような・・・

そして、舞台もクロスステッチ刺繍の上、
さらには舞台頭上にクロスステッチの裏側が飾られていて・・
導入の部分からしっかりと観客を取り込む仕組みができている

物語は現実の時間も入れ子になっており
さらに現実の外側の場面もあることから
けっして単純ではないのですが
背骨がしっかりしている台本で
見るものを迷わせないうまさがあって・・・
しかも背骨がしっかりしていることから
役者達は本当にのびのびと自分の演技が出来ている感じで・・・

それは物語の中心にある演技だけではなく
背景ともいえる演技にまで役者達の心が息づいている舞台
たとえば洗濯物をたたむ木内みどりのシェイプの美しさ・・・
彼女の台詞の背景となる彼女自身をあらわす継続的な動作の巧みさ
あるいは、ソリティアの玉を無心に動かす富田靖子の一途さ
そして思いつめた彼女の瞳の強さ
渡辺えり子のちょっとルーズな感じも
彼女が舞台にある間しっかりと維持されているから
やがて彼女の最後につながるシーンで彼女の尊厳に繋がっていく
大竹しのぶが見せる強さ・・・
しかしその中にあるもろさというか弱さをきちんと内包させ続けて・・・
その演技があるからこそ
あれだけ卓越した感情に対する表現力があっても
他を凌駕するような舞台(奇跡の人をヘレンケラーの物語ではなく
サリバン先生の物語にしてしまうような・・・)にならず
彼女が娘と母の連鎖のひとつの縫い目として
観客は舞台上の彼女を見ることが出来る・・・
そういう流れが自然に舞台を支配しているような豊潤な空間・・・

演出の勝利という部分もあると思うのです
それは台詞回しとか役者の動きとかだけではなく
舞台上の密度の強弱のつけ方のうまさも含めて・・・
たとえば物語を壊さないぎりぎりの部分で
しーちゃん(大竹)えり子(渡辺)が遊べるような時間をつくったり
畳み込むような物語の流れに生まれていない登場人物の視線をからめたり・・
もちろん、これだけの役者が上がる舞台ですから
感情の流れもしっかりと役者のなかでコントロールされているし
それらの相乗効果があるとすれば
クオリティの高い舞台が生まれるのも当然なのかもしれません

しかし、この戯曲には役者達に力を出させるような
それだけでない何かがあるような気がしてなりません。
物語に説明を要しない普遍性があるというか、
役者の示す感情に無理が生まれないというか・・・
男性の私が女性の心の動きをこれだけ納得できるという裏には
役者の力が観客に素直に伝わっていく構造のようなものが
この芝居にはあるような気がしてなりません

まあ、小難しい小理屈を並べてはみても
本当に良い舞台をみたなというのが正直な感想なのですが・・・

たとえば
大竹しのぶさんの演技、あれだけ近くで見ることができて
本当に感銘を受けました
彼女の想いは解釈を経ることなくダイレクトに心を揺さぶってくる
それはやわらかくゆっくりとしみこんでくるような
木内みどりさんや渡辺えり子さんの演技に支えられて
特にそう感じるのかもしれませんが・・・
一方富田靖子さんの表現する無邪気さと透明感は
他の役者さんよりずっと鋭く尖っていて、
それはそれで魅了されました
しかし彼女の横顔の美しさはどう表現したらよいのでしょうね・・・

芝居というのは無限の組み合わせの中で
生まれるたった一つの空間を楽しむものだとおもうし
これだけの空間にめぐりあえるというのは
僥倖の極みだともおもうのですが・・・
よい戯曲とは僥倖を生み出すだけのチャンスを
きちんと役者に与えるだけの仕組みを内包した
物語なのかもしれません
そこに戯曲に耐えうるだけの力を持った役者が集まると
このように観客を十分に満たす舞台が生まれるということなのでしょうね・・・

10月3日まで公演は続くようですが
この舞台、チャンスがあるのならぜひぜひお勧めしたい一本です

なお、詳しいお芝居の感想は
R−Club
をどうぞ・・・


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痛くなるまで・・・て?

G2プロデュース最新作@紀伊国屋ホールの
「痛くなるまで目にいれろ」については評判が結構分かれているようですね
正直、G2一流の力技で作ったような作品なので
好みは別れるとは思うのですが・・・
子供を守るためにそこまで周到にやるかみたいな・・・
でもそこまでやるからおもろいみたいなところもあるし・・・

ただ、芝居というのは無茶も本気でやれば無茶ではなくなるという
側面もあって・・・・

「痛くなるまで目に」いれるほどのしたたかな計画をもった父親と
なんだかんだ言いながらその庇護に身をゆだねる息子・・・
そのために親は周りをだまし息子までを平気で騙す・・・
もともと舞台にはなにもなくて
そこにある種の線を引くことから創作というものは
始まるのだろうし・・・
その価値観を軸に物語が回っていることで
無茶が無茶でなくなり一定の筋書きが生まれてくる
そのあたりのことってG2はよくわかっているのでしょうね・・・

ましてや陰山泰や山内圭哉のような役者なら
その無茶も十分通す力を持っているはずだし・・・・
期待は十分に満たされたし・・・

思うのですよ
芝居と料理はとても似ているって・・・
そもそも素材を選ぶのもセンスのうち。
えらばれた素材も味付けによってがらりとその性格をかえるし
食べる人にも好き嫌いがあって
同じものでもある人はおいしいと言うし
ある人はまずいという

えんげきのページなどの劇評も割れたし・・・
全員がすばらしいという芝居はそりゃ良いに決まっているけれど
でもね、もしあなたがこういう芝居を楽しめるのなら
それは天から与えられた才能のようなもので
決して悪いことではないかと・・・
たとえば納豆やブルーチーズをおいしいって思えるのは
それはそれでとても幸せなことではないですか

R−Club
にも劇評を掲載しましたが
こういうお芝居もたまに見ないと
ほかの芝居のポジションがわからなくなるかと・・・
まあ、役者がかむという書込みが多いのは
いただけませんが(演劇のぺーじに複数の書込みがあった)
すくなくとも私が見たときには
G2さんが入り口の近くの席で検閲官よろしくごらんになっていたこともあって
役者全員が緊張感をしっかり持ってとてもよい出来だったし
極上のエンターテイメンだともおもいます

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男性の好きなスポーツのすごさ

本館(R−Club)にも書きましたが
「男性の好きなスポーツ」はいろんな意味でインパクトの強いお芝居でした
総合力に優れていたというか・・・
個々に優れた面が積み重なったというか・・・

松永玲子さん、よかったですものね・・・
もともと透明というか、何にでも染まることの出来るタイプの女優さんで
彼女を見始めたときには
その分、ちょっと器用貧乏のようなところがあったのですが・・・
この数年で骨太になったというか
舞台の存在感が飛躍的に高まった気がします
細かい感情を動作で表現できる能力に加えて
しっかりと自分の感情を表現する力が他を凌駕するほどついたということでしょうか
今回の公演でも、そりゃ、京晋佑とのからみも目立たないといえば
うそになるけれど、でも一番印象に残ったのは
京晋佑演じる悪警官が怪我をして急に優しくなったとき
そのやさしさを嫌うような部分でした
説得力があるのですよ・・・
ナチュラルで、彼女の根源的な部分が浮かび上がるような
京晋佑のやさしさへの嫌悪の芝居・・・
舞台の上の女優さんに生身の感情を感じる錯覚をさせられるなんて
そうあることではありません
それだけ彼女の演技は一級品だったし、彼女にしか出来ない演技を見た気がします

松永さんだけではなくほかの役者も今回は出来が本当によかったですものね・・・
そう、今回のナイロンがすごいのは
70点クラスの芝居をうまく並べて100点にもっていくというレベルではなく
100点にちかいものを贅沢に使って隙がない100点を作ったような
ニュアンスがあること

新谷真弓さんやすほうれいこさんの演技も
観客に解釈の作業を必要とさせないほど
ダイレクトに彼女達の感情や気持ちを
伝えてくれる・・・

資質のある俳優が集まって芝居をつくっているのか
ケラさんが役者の資質を120%くらい
引き出しているのか・・・
京さんも鳥肌モノの切れだったし、みのすけさんや藤田さんもいい味出していたし

そうそう、ロマンチカのお姉さまたちも
本当に印象が強くて・・・
ナイロンの女優さんたちの表現する女性の対極にあるのがロマンチカのお姉さまで・・・
これはこれでやられてしまいました
男性ってどうしてああいうお姉さんに弱く出来ているのでしょうね・・・
フェロモンなんて言い方もあるのですが
昔風にいえば色香にまどわされるというか・・・
容姿、衣装、細かい仕草の一つ一つが
男性の劣情をそそるように計算され尽くしている・・・
もう、またたびを嗅いだネコの気持ちが痛いほどわかる・・・
松永さんや新谷さん・すほうさんの素の女性としての感情の対極として
非常に計算されつくした彼女達のパフォーマンスだったとおもいます
でも、彼女達って素はどんな感じの方たちなのでしょうね・・・
芝居が終われば普通の目立たない女性として
劇場を後にされるのでしょうか?
そんな興味まで抱かせるほど
彼女達の演技は完成度が高かったです

ケラさんの芝居、ラストシーンまでこのところあたり続きですものね
今回の表現も、ケラさんの想いがしっかりと伝わる
実に秀逸なものだったとおもいます

よい芝居をみるのは本当に幸せ
先週末にみてもう4日もたっているのに
考えがつのる
つよくちょっとどきどきで、でも充足した印象の残る
「男性のすきなスポーツ」なのでした


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寺田屋を舞台に・・・

三谷幸喜作の大河ドラマ「新撰組!」もいよいよ佳境に
入ってきましたね・・・
小さなシーンにも彼の才能がここかしこに溢れていて
毎週日曜日が結構楽しみになっています

テレビドラマにおける彼の心理描写には
舞台以上といってもよいほど細部にわたって
絶妙な軽さと深さが同居していて
見るものをあきさせませんね・・・

先週(8月29日)の寺田屋を舞台にした
シーンも含蓄があって・・・
香取慎吾演じる近藤勇のこころの動きが
ドラマの仕組みによって
彼自身のによって語られる台詞の何倍にも広がって・・・
しかもそれが、シチュエーションコメディのような
一つ間違えばウェルメイドのドタバタ喜劇になりかねない味付けの中で
しっかりと成り立っていくところがすばらしい

戸田恵子演じる寺田屋のおかみが
近藤勇におふろを勧めるシーンも
秀逸でしたね・・・
戸田恵子という役者の強い面がしっかり出て・・・
男のもつデリケートさと女がもつ強さのコントラストは
案外表現できるようでむずかしい気がします
三谷幸喜の面目躍如というところでしょうか・・・

あと、優香と田畑智子のふたりがそれぞれに
譲り合って近藤勇をわかちあうシーンも
味わい深いものでした
東京出身の優香が大阪の太夫を演じ
京都出身の田畑智子が江戸の本妻を演じるところが
またおもしろくて・・・・

シーンを積み重ねていくことでひとつの世界を律儀につくりあげていく一方で
遊び心も忘れない(彼一流のコメディのセンスもちゃんと盛り込まれている)
三谷脚本はこれまでの大河ドラマと一味違う感じがします

でも、私は三谷芝居がすきだから
けっこうそう思えるのかもしれませんね・・・
あまり芝居をご覧にならない方が「新撰組!」を見ると
どのような感じを受けるのだろうか
特にこれまで大河ドラマを支持してこられた年配の方など・・・
ちょっと興味がありますね・・・

だれか教えていただけるとうれしいのですが・・・


R−Club

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