| 演目 | 劇団・プロデュース | 場所 | 日時 |
透明人間の蒸気 |
Noda Map | 新国立劇場中ホール | 2004年3月28日マチネ |
作・演出・出演 野田秀樹
出演
宮沢りえ 阿部サダヲ 高橋由美子
手塚とおる 有薗芳記 大沢健 秋山菜津子
六平直政 池谷のぶえ 小林功 小手伸也
山中崇 福寿奈央 櫻井章喜 須永祥之
阿部仁美 木下菜津子 中川聖子 浜手綾子 小椋太郎
演奏:福原寛菜 松坂典子 山田貴之
劇評
新国立劇場舞台の奥行きは恐ろしく深い
一世紀分の距離は優にある
野田秀樹の世界観の広さに匹敵する劇場というのは案外少ないのかもしれない
いきなり劇場内に入ると大きな日の丸に驚かされる
それを見ただけでなにか危ないものを見ているような気がする自分がいる
野田の戯曲は昭和16年の開戦をひとつの軸にして物語を展開しているので
時代を映す舞台装置の一つに過ぎないのだが・・・
そのなかで、何も見えない、何も聞こえない少女が登場する
聞こえない音を足で聞く
彼女にはふとしたことで透明人間になり嘘八百の神に祭り上げられた
一人の男が唯一見える存在になる
透明人間は詐欺師の逃亡の果て
彼は彼女の神として彼女とともに透明人間であることを受け入れる
大晦日には戻るという約束を少女と交わして
いったんは砂漠を逃げ出すが・・・・。
やがて大晦日、神様は戻り、凶弾に倒れる
彼女も婚約指輪としてもらった傷だらけの20世紀を齧り
時代のなかで眠りに落ちる
何十にもいりくんだレベルのようなものが存在する
おろかに詐欺師にだまされるもの
だまされてさらに詐欺師に騙され続けるもの
騙されて詐欺師を追うもの
追い続けて朽ち果てるもの
生きながらえるもの
果実の名は20世紀ナシ・・・
さまざまなものが生まれ
言葉とともにくちていく
生まれ消えていくもの
寓話のかたるような野田秀樹の作劇が
最後に時代の流れをはるかに眺めるさまに変わるとき
清流に身をおくような心の高まりが訪れるのはなぜだろう
可変と普遍を時間に絡めて三つ編みにした
彼の世界観がマクロに伸びると
二十世紀や二十一世紀すらひとつの果実にすぎなくなってしまう
同時に果実の内側には(味噌カツとは限らないが)
さまざまなディテイルが存在して・・・
たとえ黄泉の国への入り口が星条旗にふさがれたとしても
時代の綿々とした流れを結局とめることはできないということか・・・?
撃たれあるいは梨を齧って砂の上に倒れたふたりが砂に倒れるとき
そして綿々とした時間がふたりを通り過ぎていくとき・・・
押し出されるような胸の高鳴りとかすかな悲しさがゆっくりと沸いてくるのは
野田秀樹の歴史観がおごり高ぶることなく
恐れず真摯に提示されていることの証なのかもしれない
宮沢りえが良い。
強さを兼ね備えた透明感が観客を惹き付ける。
透明感と存在感という実は矛盾した感覚を観客に与えることができるのは
彼女の動きや台詞に観客を巻き込むような力を感じるからだと思うが
これは練習とか努力とかで得られるものだけではなく
基本的に天性のものがないと得られない力だと思う
華があるというような言い方もあるが
観客の心にある種の躍動感を与える彼女のような天賦の力は
存在だけで舞台の広がりを倍にする
また、演技に澱みが感じられないのも彼女の大きな強みである。
彼女の台詞や仕草は
まるでおいしい水を振舞われたように
すっと観客の心に染み入ってくるのだ
他の役者についてもクオリティがそろっているというか
野田秀樹が本当にうまく使っている気がする
まあ、しいて言えば阿部サダオも決して悪くはないのだが
もうひとつ欲を言えばとまどいのないしなやかさがほしい
騙される秋山菜津子のほうが一枚上手に見えてしまう
池谷のぶえは篠崎はるくの代演とのことだが
ちょっと力が余りすぎている印象があった
高橋由美子は硬質な演技がきちんとできていて
なおかつ手塚とおるの持つ一種の非情さに対して
女性的な一面がきちんと出せていて○
終演後
新国立劇場の立派なホワイエをおりながら
もう一度自分の時代と、自分の場所と、自分が属する民と歴史の流れを
ゆったりと考えてしまう
本当に考えてしまう
歴史を自分のなかに取り込んで考えるなんて
ずっとなかったと思う
それだけのことを思わせる力を
野田の想像力や宮沢の演技は持っているということか・・・
感動とは力に触れたときにこそ現れるものなのかもしれない
評価:★★★★★★★★★☆(+)