| 演目 | 劇団・プロデュース | 場所 | 日時 |
Midsummer Carol ガマ王子vsザリガニ魔人 |
パルコプロデュース | パルコ劇場 | 2004年7月17日ソワレ |
作/出演・後藤ひろひと
演出・G2
出演
伊藤英明・長谷川京子・山崎 一・犬山犬子
山内圭哉・片桐 仁・小松和重
瀬戸カトリーヌ・加藤みずき・木場勝巳
劇評
後藤ひろひとの紡ぐ物語には常にいくつもの伏線が張られていて
その密度についてのバランスのよさにはいつも舌をまくのだが
今回の作品には加えて一本の太い線でみせるような
コアというか強さがあったように思う
しかも彼が提示するその中心線のようなものから
創作における彼一流の強引さが影をひそめ
かわりにデリケートで心の琴線を奏でるような
シチュエーションが創出されたことから
結果として彼の想いがよりピュアにつたわる舞台となった
後ろにはやや荒めのネットのような物語がいくつも走っており
それらもしっかりと機能しているし、同時に不可欠なものなのだが
なんといっても少女と老人の物語に対する、
繊細で一途ともおもえる作者の想いが
後藤・G2演劇に新しい世界を授けたような気がする
とにかく中心線ともいうべき木場勝巳・加藤みずきのシーンがよい
まったく異なる想いがそれぞれの意図にかかわらず交わっていくさまが
本当に美しく描かれていく
通常、それぞれでは成り立たない想いのやり取りが
ひとつの小さな奇跡とともに
とことんまで偏屈な老人と記憶を作れない少女の間で生まれていく
そのシーンがなんとしなやかにまたナチュラルに演じられていくことか
加藤の演技には結果としての純粋さはあっても無心に対する押し付けるようなりきみがなく
結果として木場の演技の押し引きをしっかり受け取り
さらに彼女のペースで返すことになった
このことが木場の熟練した演技のメリハリをさらに大きく生かす相乗効果を生んでいった
さらに、加藤の演技がデフォルメされずぶれないことで
木場が演じる老人の心境の変化がゆがめられることなくそのまま観客に伝わっていった
彼らの世界にとりこまれていくとき観客には涙さえ訪れる
人が涙するとき・・・デフォルメされた事象への傍観者としての涙にはある種の精神的作業が伴うが
とりこまれ主体の視線から事象を見た結果としての涙はただあちらからやってくるだけである
やってくるだけの涙は心を透き通らせる
1幕後半に現出するシーンはそれだけでひとつの物語なのだが
そこには最初の感動が存在している
一方戯曲のなかでそのシーンは2幕の物語の、そしてどんでんがえしのベースにすぎない
後藤戯曲における深さの秘密のひとつは
このような揺さぶっておいてさらに揺さぶるような大サービス精神というか
一定のレベルにある物語をさらに凌駕する何かを現出させるような
構造にあるのかもしれないとすら思う
観客にとって心の震えのようなものが結論ではなく過程として芝居がすすんでいくのだ
今回の役者は選りすぐりである
長谷川京子については「えんげきのページ」などでも
かなり批判がでているようだが、書かれているほど悪くはなかった
役柄的にも後藤の無理がかなり入ったキャラクターであり
台詞回しのつたなさのようなものも
好意的に見れば戯曲の意図を反映したものといえるかもしれない
現実に彼女のキャラクターが観客に伝わったから成り立つようなシーンもいくつかあったし
彼女なりの一生懸命さは十分に伝わっていた
とはいうものの彼女が舞台のなかで浮いた感じになることが多いのも事実で
その一番の要因は彼女が自分の想いを相手役に渡すときの演技と
自分の想いを相手から閉ざすときの演技に
十分な区別をつけていないことにあると思う
紋切り型に突き放すような台詞を話すときの長谷川には力と切れがあり、
彼女本来の非凡な才能を垣間見ることができるのだが
相手に言葉を渡したり思いをぶつけるシーンになると
突然彼女の言葉が舞台上で浮いてしまうのだ
言葉が浮いてしまうと今度はしっかりと演技の間が取れないようで
舞台の緻密な雰囲気の中でどこか色が違うような彼女が現出してしまう
もうすこし台詞にたいする相手の反応をしっかりと受け止めるなり拒絶したりする演技があれば
彼女の印象はかなり変わるような気がする
それをさせないG2演出の意図があるのかもしれないが
もうひとりの初舞台となる伊藤英明は悪くない
ただ、しいて言うなら演技についてもう一段の強弱がほしい
落ちる部分は観客が不快になるくらい落ち切ってもよいような気がする
そうしないとCarol演劇のシーンでメインの役者としてのインパクトを与えることはできない
瀬戸カトリーヌに一番おいしいところをさらわれた一番の原因は
それまでのメリハリの弱さにあると思う
存在だけで雰囲気を作れる役者であることには間違いない
しかしながらもうひとばけするだけの力が見え隠れするのにそのままにしておくのは
もったいない気がする
一方伊藤を喰った瀬戸カトリーヌの演技は◎だった
底力のようなものがあり、きちんとした重量感がある演技
しかもパワーがきちんと抑制されているのがよい
台詞だけでなく小さな仕草や表情で何かを伝えることができる女優さんでもあると思う
しかもテンションをトップギアに持ってきたときの力は
ちょっと並みの女優さんではまねのできないものを持っている
今回の演技でみせる社長婦人の貪欲な部分なども
ある意味後藤演劇の無理無理な部分という気がするのだが
それをこともなげに支える脇役としてのすばらしい才能に加えて
舞台の空間そのものをしっかり支えきる演技力を彼女に見た
うまいといえば山崎一や犬山犬子、小松和重、片桐仁といったところはやっぱり
理屈抜きにうまい
彼らの役柄には今回舞台上での起承転結があまりなく
物語の場をつくっていくような役柄であるが
彼らが作った雰囲気のなかでこそ初めて加藤のナチュラルさが表現できたのだと思う
山崎の医師が与えるある種の安心感、犬山が表現する隔離された病院と世間とのつながり
小松は瀬戸の演技の対極として病院の外側でのありふれた日常を観客に十分意識させていたし
二役で後藤との会話に見せる一族のその後の演技が
物語に観客をしっかりと導いていた
実際のところこの脇役たちは本当に贅沢だと思う
彼らがみんなで縁の下をささえていなければ
木場と加藤の心のふれあいにここまでの透明感はなかったと重ね重ね思う
山内圭哉も縁の下で支えた一人であるが
彼には他の役者とは違った意味で相変わらずここ一番の存在感がある
彼のなにげなくべたな大阪弁がCarolのシーンを本当に膨らませたし
彼が入院する奇抜な経緯を白けさせないで笑いに持っていく力を
持っている(これも本当に笑った)
彼はまさに
瀬戸と並んで後半の波状の笑いというか笑いのグルーブ感を作り上げた立役者の一人であった
ただ最近後藤戯曲における彼の役割には
強面と内部にもっている子供っぽい弱さの対比で笑いを取る部分が多く
山内の使い方としてはかなりもったいない気もする
彼はもっと細かい心の襞の部分をきちんと演じることができる役者だと思うし
もうすこし細かいシチュエーションの作り方が彼の役柄にあってもよいのではあるまいか
それが彼のよいところを殺す部分もあるのかもしれないが
彼については後藤戯曲におけるもっといろいろな演技を見たい気がしてならない
今回の芝居で一番これまでの後藤/G2の演劇と違うと気づいた一番の要因は
彼らの演劇を見るたび常にほんの少し存在していた散漫感のようなものを
今回はまったく感じなかったことだ
これまで
その散漫感は関西的な笑いを含めることによる副作用のようなものだと思っていたのだが
今回は観客を転がすような笑いがあったにもかかわらず
終わったあとカーテンコールの拍手をしながら
まるで透明なクリスタルのなかに集約されたような物語を見た印象があり
この集約感こそ後藤/G2演劇は確実に進化している証だと感じた
たとえコーラ缶の数で時間をあらわすようなまじめにべたなギャグを含めても
(基本的にこういう笑いが好きな自分もなんだかなのだが・・・)
田螺のかぶり物に力をそそいだとしても
後藤が持つある種の誠実さに満ちた感性の本質を
笑いというひとつの要素に損なわれることなく表現するすべを
後藤/G2は手に入れたということだと思う
評価:★★★★★★★★★☆(+)