Stage

Stage/stage2

演目 劇団・プロデュース 場所 日時
CABAROTICA キュピキュピ スパイラルホール 2004年8月21日ソワレ

 

構成:キュピキュピ

グラフィックデザイン:江村耕一

造形:木村真束

演出・映像:石橋義正

スタイリスト:中西陽子・中西恵子

出演

分島麻実(Vocal)

YOSSAN(Golden Yoshiko)

野川沙希・小森里子(Panoranoia Dancer)

カオリ(Nude Dancer) 北川有己(Fish Head)

演奏

功刀丈弘(Vi) 古味寛康(Bs) 寺田千春(Ac)

ターケン(Pcs)

 

 

劇評

スパイラルホールはビルの3階、

あがっていくとすでにそこには一種の雰囲気をもった世界が存在している

なんというか、一種の折り目正しさというか・・・

多少スノッブな感じ

劇場の中に入ると席まで案内してくれたウェイトレススタイルの女性の

アティチュードも洗練されていて・・・

脚の美しさ、やや低めでなおかつしっかりした声、

表現は舞台だけでおきるのではないということを

予感させる

 

劇場全体の壁面での映像表現からパフォーマンスが始まる

これが半端ではなくすごい

切れのよさとウィットのある映像、スピードとお洒落と退廃の匂い

音とのシンクロは身体に直接伝わるような何かすら感じさせる

購入したDVDでこれらの映像こそが

現在のキュピキュピの表現の核をなすものだとわかったが

そんな知識などなにもなく見ても

非常に印象が強く無抵抗に引き込まれてしまう

 

そして分島麻美の登場

彼女の立ち姿にはきちんと舞台を仕切る貫禄のようなものがあり

しかも彼女の歌唱にはぶれや不安定な部分がなく

歌でも力むことなく観客を十分にひきつけるだけの迫力を持っている

周りの映像も非常にクリアでうつくしい

意味のあるものと(画像とか文字とか)印象に訴えるもの(色とか形とか速度とか)

の混在がみごとで

さまざまなものが交わりながら

観客のイメージをふくらませていく

どことなくヨーロッパのティストをもった場内の薫りと

彼女の昭和歌謡の世界が映像を触媒に

見事にひとつに溶け合って・・・

しかもそれぞれの表現がしっかりと自らの存在を主張して

個性を消すことなくそこに存在している

 

ダンサーもすばらしい。

舞台の外で踊る4人のダンサーたちのバランスのしっかりしていること

Paranornoia Dancersの二人も

ちょっとふとめのGolden Yoshikoも

前が見えないFish Faceも

上半身を無意味にさえ思えるほど激しく動かすのに

下半身がぶれることが一度もなかった

あのちょっとラフっぽい振付をなにげに踊っていることこそが

ダンサーたちのレベルの高さを物語っているように思う

ユードダンサーのカオリのかもし出す雰囲気は舞台上の薫り高いスパイス

彼女の腰の動きの柔らかさは高貴ですらある

そして露出した胸のシェイプが動きに形を変えるときの美しさ

ある意味エロいのだが、エロさにしっかりした気品があるため

感じる猥雑さのなかに残滓がのこらない

 

そして、楽団のレベルにも舌を巻いた

かれらのテクニック(特にViolin)は

幕間の彼らの演奏を聴くだけで十分にわかるのだが

それ以上に観客が十分に歌の背景として身をまかせることができる

本当に舞台にとって深く強さがあり

一方で無駄な音が一切ない

 

舞台空間を構成する要素のひとつづつ、

歌、踊り、演奏、舞台を包み込む映像や照明、

さらには開演中に場内の左右の壁そばを

何気にシンメントリーに動くウェイトレス達(2名)がつくる雰囲気

要は客席までも含めて劇場舞台を構成するさまざまな要素のレベルが

恐ろしく高いのだ

 

そのなかで演じられるというか提示される世界の

なんと豊かなことか・・・

最初の曲でちょっとキッチュな世界にお客さんを引き込んでおいて

AとBの物語の小粋さ、「お祭りマンボ」の勢いのなかににじむ艶

「フラワーサンデー」に見られる映像とのシンクロの美しさ・・・と

ベースを変えることなく

一方でそれぞれの曲がもつ別々の魅力を

丁寧に演じ分けていく分島の才能にはほれぼれしてしまう

 

なかでも「カノン」の映像と

ゆったりした彼女の歌声の融合には

ある種の昇華すら感じる

観客は宇宙の映像や音声をとりこむだけでなく

宇宙の映像を媒体にして自らのもつ

時間の感覚をゆっくりと覚醒させていく

感覚は自らの外側からやってくるのでなく

内側から溢れてくるような錯覚さえうける

 

もし、並みのパフォーマーが同じことをすれば

きっと、もっとずっと、キッチュな舞台が出来上がったにちがいない

しかしキュピキュピのパフォーマンスにおける完成度の高さに

下世話になりかねない昭和歌謡や西洋歌謡は

心地よいほどに目鼻立ちのはっきりした

お洒落なエンターティメントへと磨きあげられた

 

むかし、落語の名人といえば志ん生と彦六(正蔵)といわれる時代があった

芯ん生の自由闊達な芸風と演目の豊富さに比べて

彦六の落語は演目が少ない代わりに磨きぬかれたものだったという

キュピキュピの表現は彦六の落語に近いものなのかもしれない

「天城越え」で山が燃えるとき

多分私は何度でも吹き出してしまうとおもう

まるでなじみの落語を名人から聴く時のように

わかっていても観客をひとつの感覚に導く力を

キュピキュピは持っている

 

 

もっとたくさんのことを知りたい表現者に

であった気がする

 

 

評価:★★★★★★★★★☆( ー)

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