作・演出・出演 江本純子
出演
柿丸美智恵・町田マリー・澤田育子・金子清文
原口洋平・和倉義樹・羽鳥名美子・佐々木佐知子・町田カナ
内田慈・延増静美・小黒奈央・河野真子・斎藤由香里・高田郁恵
武田裕子・平野由紀・古市海見子・松尾ユウコ・水町香菜恵
石本真一朗・小平信一郎
劇評
作劇に際して
作者の江本には浮かんだイメージがあったはずだ
それは娼婦館であったり、プリティリーグであったり・・・
いろいろな思い付きが頭を駆け巡ったのかもしれない
きっと彼女なりの作業としてそれらに物語の枝葉をつけて
江本は山ほどの言葉とともにそれらを台本に落としていったに違いない
宝塚の男役ばりの江本の登場から始まって
さまざまイメージが無作為に盛り込まれようとする
それらは猥雑であり、軽薄であり
ある意味ではちらしやパンフレットの触れ込みどおり・・・
問題はそれらがとんでもなく陳腐なことである
江本の提示するキーワード達には独創性が見られず
逆に緻密さも感じられない
たとえば女優陣が乳房をむき出しにして
乳頭をかろうじて毛と書いた星型の紙で隠せば
見栄え的にはめずらしいだろうが
もし女優達の肉体をもって猥雑を表現しようとするのなら
全国にあるストリップ劇場のほうが
はるかに哀愁のある劣情を感じさせてくれるにちがいない
それ以前にこの演劇においても猥雑さの表現は手段であって目的ではないはずである
江本は空間の連続でどんな世界を作り上げたかったのか
正直言って見えない
次々とシーンが提示されるたびに
江本の表現したいものに
思いをはせるような時間が存在することは認めるが
ただ、同様の秀逸な芝居とくらべて根本的に違うのは
取り込まれるような世界観や満たされた空気をまったく感じないこと
観客が舞台に対して感じる好奇心のようなものにまったく実りや余韻がないのだ
原因はいろいろあるのだと思う
一番基本的な問題としてひとつのシーンを維持する力が
このステージには根本的に欠落している気がする
それは芝居初頭の「フネ」についての群唱の時から感じたことだが
ひとりひとりの集合としての台詞に切れがない
強弱がないから船が来ることに感動が感じられない
フネに乗り込むことの不安や悦び
それらが飾りとしても誇張としてすらも伝わってこないから
陳腐なサザエさんネタですらきまらない
そもそも光の中から人物が現れる出だしの部分も
演じる役者の想いが定まっていないから
ただ近所のおばさんが買い物を急ぐような風情に見えてしまう
ステージに立つものが形にとらわれて
想いを伴わないままにいると
観客は受け取るものがないから
広がりというか3D的な深さを舞台から感じることができないのだ
一方イメージをきちんと提示している部分でも
そのあとにイメージも自分達の物語として広げる力が感じられない
中森明菜などの曲を借景した時点で
その先の広がりを見せないと
観客は薄っぺらい空間のなかで置き去りにされてしまう
イメージを借りてくるというやり方は決して悪いことではなく
舞台を作る側にとっても見る側にとっても
同じ感情やニュアンスを共有する際の大きな武器になりうるとはおもうのだが
それをぽんと観客の前に投げ出して
それで終わりでは観客もニュアンスの解釈に
行き場を失う
材料をコンビニで買ってくるのはかまわないのだが
買ってきたものをパックのままで出されたら
さすがの客もしらけてしまう
演じるほうにもにも技術的に見て基本的なことが出来ていない部分が多い
踊りひとつをとっても出来がまだらなのがまず気になる
単純なルーティンの振りを全員がシンクロして踊るところなどでは
数の力でしっかりと観客に対して
相応の圧力をかけている部分もあるのだが
すこし複雑な振りやステップが入ると
ついていけない役者が続出してしまうのは
どうにもいただけない
コーラス★ラインの何人はがしっかりした踊りできているのだが
ついていけなくてステップのいくつかをスキップした役者がいたり
ターンの際に出演者どうしぶつかってしまうようでは
観客の方がどうしてよいのかわからなくなってしまう
本来踊りのシーンでは観客が踊りに対して身をゆだねる部分が多いのだが
これでは観客が提示されようとしている空間に
同化し集中するのにはかなり努力を要することになる
それでも物語全体としてみて入り込めればまだよいのだが
いくつもの物語が骨格が良く見えないまま飛んでいくものだから
観客はつかみかけた感覚が何度も手からすり抜けるような体験をすることになる
イメージのコラージュによる表現という解釈をしようにも
イメージのひとつずつが独立して不完全なので
台所に並んだ生煮えの野菜や肉を個々につまんで
どんな料理を作ろうとしていたのか想像するような作業を
観客は強いられることになる
結果として
舞台の上には不完全に表現された江本の想いのようなものだけが残る
この舞台のさまざまな瑕疵のなかでも
一番根元にありなおかつ致命的なのは
江本の想いが彼女が歌に託すほど情熱的な高揚感とはうらはらに
実はきわめてステレオタイプでコンサバティブなことである
彼女の書く台詞や表現は
残念ながら
彼女が見栄を切るすがたと裏腹に観客に驚きをまったくもたらさない
観客自体が驚かないことは別に悪いことではなく
ステレオタイプな想いが緻密に描かれていれば
観客は同感というベクトルでの感動を得ることができるのだが
緻密さを支えるだけの表現力が十分に熟成されていない舞台上では
役者達のがんばりがあってもいかんともしがたい部分が
見え隠れする
それでも、舞台は何人かの比較的力のある役者によって支えられていく
柿丸美智恵は声の使い方だけでも十分存在感のある女優さんで
特に気持ちを切り替えるような一瞬の間がよい
なによりも安定した演技のクオリティが観客を安心させる
地獄に仏とは彼女のような演技を言うのかもしれない
澤田育子、町田マリーなども観客にキャラクターをはっきりと明示させるだけの力があり
観客が身を任せることができた
町田カナ・佐々木幸子・羽鳥名美子あたりも
与えられた場においてはきちんと仕事をしていたが
表現する場のベクトルが定まっていないがために
迷いが多少見て取れた
決して物語を構築するための駒がそろっていないわけではないと思う
それなりによい役者が演技を重ねていけば
空間は小さな物語の連鎖に満たされてくるのであるが
何かが固まって物語が落ち着いてくると
江本の歌が登場し、
まるで物語が形を成すのを恐れるように物語をぶった切り
明後日から持ってきたような
歌や台詞でぶち壊す
江本は卵売りの部分以外で舞台に現れるとき
本気で舞台に物語を語らせようとしているのだろうか
それとも、役者達の努力ですこしずつ回り始めた物語をさえぎるために
彼女は歌うのだろうが・・・
まるでスーパーの特売品を並べたチラシを
それでも個々の商品を眺めつづけたような気持ちで
(たまに興味をひかれる商品があったりするところが困ったもの)むかえた
最後のコーラスラインの場面、
もし、踊りが決まり最後のBowがきちんといけば
超甘の解釈として
柿丸演じるおちんがやがて洗練されたなにかを演じるための
やっとスタートラインに立ちましたという解釈も
成り立つだろう
しかし、何人かを除いては全体にドタドタした感じの
「One」では洗練など望むべくもない
むしろ、Oneを踊る女優達のレオタードすがたが
もっと言えばヒップラインが妙に下卑でいやらしく
饐えた娼館のベットに染み付いた女性の汗の匂いと同質のなにかを
感じてしまった
もし、それが、江本の表現しようとした感覚ならば
彼女へたうま的な演出や役者の演技力に舌をまくのだろうが
現実には洗練を表現しようとして表現を支えられなかった
何人かの女優やそれを演出した江本の敗北だけが
そこには残った
きらびやかな衣装は
輝きに値するものを持たない演者を嫌い
まとうものを攻め立てるということなのかもしれない
それにしても、理解できないのは
舞台上のイメージの積み重ねで
江本が表現したかったものがなんだったのだろうかということである
何かを舞台に表現しようとしたというよりは表現を舞台に強いられたような印象すらある
毛皮族は大きな舞台が始めてだとのことであるが
大きな舞台と彼女の主従関係が逆転してしまったのだろうか
それとも大きな舞台よりもっと大きなものを彼女は表現しようとして
討ち死にを果たしたのだろうか
アンケートを書きながらしばし考え込んでしまった
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