<  作・演出 三谷 幸喜

出演
戸田 恵子

生演奏
小竹 満里 山下 由紀子

劇評

私にとってこの戯曲の主人公になったミヤコ蝶々さんは
かよっていた高校の近くに壮大なお屋敷を持つ芸能人のひとりであった
体育の授業に長距離走があり
彼女のお屋敷の周りを走るたびに
塀の長さにため息をつき
テレビに出ているただのおばさんの彼女と
そのお屋敷の大きさのギャップに
なんともいえない不思議な思いをしたものだ
彼女の歴史や芸の大きさを知らない高校生にとって
彼女が持つお屋敷の大きさは理解しがたいものだったのだ

今回戸田恵子が演じたミヤコ蝶々が
強い存在感を持って浮かび上がってきた背景には
私にとってミヤコ蝶々の存在に内包されたさまざまなギャップが
丁寧に表現されていたことがある

多分、三谷幸喜にとってミヤコ蝶々というひとは
さまざまなものに対してとても真摯なひとだったのではあるまいか
戸田恵子の凛とした台詞まわしは
ちょっとはすっぱなお手伝いさんへの言葉遣いと裏腹に
彼女の根にある真面目な人柄の模写していく
意図してのことかどうかわからないが
ちょっと中途半端な大阪弁が
舞台の戸田恵子をミヤコ蝶々というキャラクターを演じる独立したひとつの個性として
観客に認知させるためには効果的で
観客は本来持っているミヤコ蝶々のイメージを、ひきずることなく
かといって忘れ去ることなく
三谷幸喜が作り出す「ミヤコ蝶々」の
物語にわが身をあずけることができる

たとえば生い立ちの物語
俗曲の一節が受けたことから
芸の面白さを知るという部分
それは、文章にすると多分十数行の説明にしかならない話なのだが
彼女への稽古のきびしさとそれに対しての彼女の認識のギャップが
高座というか演芸の舞台ですっと埋まってしまったことへの
彼女自身のおどろきをよくあらわしている
以来戸田演じるミヤコ蝶々はギャップを学ぶことで
彼女が彼女である素地を身につけていく

芸にしてもそう、男性との関係にしてもそう・・・
彼女が一生懸命になっているときに自分の内側からみているものと
同じものを第三者がとうみているかのギャップ
あるいはそんなとき彼女自身が思う彼女と
周りにとっての彼女のギャップ
さらには時間と立場がかわることによるギャップ
干し椎茸に見えた前妻から渡された夫を取られるときに
今度は自分が干し椎茸のようにみられていたというエピソード・・
戸田の非常になめらかな緩急を通して
幾重にもわたって描かれるこれらギャップに
彼女のみならず彼女の父や夫達の姿が
まるでバックライトを当てられたように浮かび上がり
それらがさらに彼女自身の姿を際立たせていくのだ

あるときには恋におぼれ
あるときには覚せい剤におぼれて
彼女はギャップに気づき・・・
それでもといってギャップを受け入れては前にすすみ・・・
かなしゅうてやがておかしき緊張と弛緩の人生
最後に自分の人生について、
自問するギャップの場面においても
最後はそれを受け入れやがておかしきにしてしまう彼女の生き様・・
その味は戸田恵子がそれぞれのシーンで積み上げてきた
やがておかしきの演技が見事に結実したラストでもあった

それにしても三谷戯曲上での
ミヤコ蝶々の人生を表現するバランスのなんとみごとなことか・・・
一人芝居ということもあるのだろうが
無駄を廃し太目のエピソードを編みこんでつくられたかごに
なんとミヤコ蝶々がしなやかにしかもしっかりとおさまっていることか・

一人芝居であることをカバーするための様々な工夫もよかった
父親をちいさなピンスポットであらわすやりかたもそうだし
漫才の受け応えや時間の流れをマリンバやパーカッションで表現するやりかたなど
非常にうまく機能していた
それらの音が戸田恵子のひとことで意味を与えられていく
彼女の手の中で彼女の視点から語られる言葉は
もしかしたら俳優が相手役となって返される台詞よりも
はるかに有効かもしれない
ともすればギャップの表現のなかで
彼女をとりまく登場人物に流れていきそうな興味を
ライトの表現がなんどもさしとめて
舞台上をあくまでも彼女から見た物語に
つなぎとめていた

戸田恵子には強さがあっても力みはなく
芯をしっかりと保ちながら
舞台にミヤコ蝶々をとりこんでいく
自分を前面に出し続けていく体力を持ち合わせながら
すっと引くような間がとてもよく
ギャップを表現するためのギャップを使った表現が
舞台にしっかりとした奥行きと
ミヤコ蝶々が観客の中に存在する空間を与えていたと思う
三谷幸喜の意図がからまわりすることなく
彼女によって具現化していく姿の先に
ミヤコ蝶々のちょっと捨て台詞のような自分への突っ込みが
彼女が憑依したように発せられる・
気が付けばミヤコ蝶々の図柄に
幾重にも想いを重ねられた厚い創意と演じる力がが
ひとつのものとして観客を魅了している
才の結実がいくつにも重なってひとつの木のように見えるとき
感動は尖るものでなく包み込むものに変わる

本来は
大作とか名作とかいう類のものではなく
小品とか佳品とかいわれることこそが最良のほめ言葉になるような
そんな大きさの舞台であったが、
その範疇をしっかりと凌駕した部分が随所にあり
最後に三谷幸喜のしてやったり顔が
目にうかんで小憎らしくなるような思いさえする2時間であった

 

               

評価:★★★★★★★★★☆( ー

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