| 日時 | 劇団名 | タイトル | 会場 |
|---|---|---|---|
’05.4月30日 ソワレ |
パルコ劇場プロデュース |
シャッフル |
パルコ劇場 |
脚本・演出・出演:後藤ひろひと 出演:
|
この文章にはいわゆるネタバレがあります。ご了承のうえお読み下さい
後藤ひろひとの発想力と
それを着実に具現化する力が
この舞台の成功のもっとも大きな要因なのだろうと思う
発想自体のユニークさは彼の他作品と遜色ない程度ではあるまいか
もちろん極めてユニークではあるけれど
「ダブリンの・・・」や「ミッドサマーキャロル」から見て
際立っているわけではない
ただ、舞台上のルールというかロジックのなかで
この発想が動き始めると
これまでの作品とは毛色の変わった様々な面白さが
あふれ出して観客を魅了した
後藤は自らが舞台に課したルールに対して
極めて忠実に物語を展開していく
それゆえ前振りの数十分は若干退屈な印象がある
それでも退屈であろうがなんだろうが物語の骨格を見せておくという
職人の信念のようなものががあとで生きてくることを後藤はちゃんと知っている
着実とはたとえばそういうことである
動物による状況説明を不気味な衣装の後藤が行うあたりから
物語は一気に展開していくように思える
後で冷静に考えると物語の展開スピードは
全編それほど変わっていないのだが
観客は物語の骨格が次々と枝をつけ広がっていくことに
スピードに似た感覚を感じる
但し、物語にスピードがついているわけではないので
観客が置き去りにされることはない
舞台上に展開される事象の因果までが個々に説明されており
観客の想像力に頼るような飛躍がないので
観客は舞台上のルールにしっかりのることができるのだ
特に主人公の主観で見る世界と
主人公の外側から見る世界の切り替え方が非常に丁寧で
観客がしっかりと舞台上の視点がどこにあるかを明示したことで
観客はまったくストレスなく物語を追うことが出来たと思う
いったん観客を舞台上の掟にとりこんでしまえば
あとはもう後藤のやりたい放題である
個々の役者のもつイメージや潜在的な能力を
時には強調し時には素敵に壊しながら
観客を魅了していく
奥菜恵は本来骨太というか芯が持った演技ができる女優である
とくに視線の強さにはちょっとそこらの女優ではまねの出来ないものがある
それは「ドント・トラスト・オーバー30」などを見ても十分理解できるのだが
後藤は強さだけをひろって
そこに彼女本来の美しさや華やかさとのギャップを作って
観客を魅了する
主人公の視点から見せている分には
様々なキャラクターをフルーツアラモードのように
役者達に演じさせうるのだから
役者の持つ個性がしっかりしればいるほど
そのギャップは大きくなるわけで
後藤は役者にてんこ盛りの演技をさせるために
このシチュエーションを作ったのではないかと勘ぐってしまう
風花舞は初見であるが
彼女も香りたつような美しさを後藤に見事に利用された
ドロンジョ(ヤッターマンの・・・、悪党3人組はこのアニメキャラクターの借景では?)を
思わせる彼女のキャラクターはある意味しっかりはまっているのだが
刑事の情報屋というおっさんきゃらを
その美しさで演じきるところに
彼女のコメディエンヌとしての強い適性を感じる
特に演技自体にフレキシビリティというか
ある種の柔軟さが感じられるのがよい
石野真子は
アイドルキャラを良い意味で後藤に弄ばれた
石野も初見であるが立ち姿に凛としたところがあり
それが彼女のもつ華の部分をしっかりと強調していた
それゆえ彼女が本来持ち得ないキャラクターを演じるギャップはものすごく
一方キャラクターを演じながらも彼女の本質までも崩さずにもちこたえたことで
物語をしっかりと維持するばかりでなく膨らませることに成功した
また余談であるが
彼女の後ろに透けて見える一種の生真面目さのようなものが
舞台女優としての彼女には
今後大きな武器になるような気がした
ところで、話はちょっとそれるがアンコールで歌う彼女の姿には感動・・・
自らの心のうきうき感にアイドルを舐めてはいけないことを痛感した
平田敦子や澤田育子も好演であった
個性を武器に後藤に見事にいじられたことに変わりはないのだが
いじられるだけの地力のようなものが彼女達にはみなぎっていた
ただ、後藤のいじり方もステレオタイプではなく
平田が彼女自身の演技を淡々と続けるがゆえの凄みのようなものを
出していったのに対して
澤田には大きく崩れる狂気のようなものを割り振って見せた
そのあたりのバランス感覚が非常にうまく機能していたように思う
伊原は演技に心地よい歯切れのようなものがあった
彼によって複雑になっていくストーリーから
もたつきのようなものが消えたのではあるまいか
動きにも力とスピード感があり
地の物語がもつべきハードボイルド感のようなものを
しっかりと維持出来ていたと思う
鹿内孝は自分の領分の仕事を淡々とこなしていた印象であるが
まわりが大変なことになっていくなかの彼の演技は
舞台の梁のような堅固さがあり
観客のふれをなくすような部分があったように思う
そのあたりのしっかりとした演技は
三上・勇太にも言える
特に今回の三上は縁の下でしっかりと物語を回していた感があるが
舞台の土台部分を構築する力は十分であった
松谷・山内の演技は
しっかりと物語を回していくことに費やされた感があるが
ふたりともまるでジグゾーパズルの空いた部分にすぽっと入るような感じで
見ていて心地よかった
やっているほうは大変なのかもしれないが
見ているほうからすると
山内の演技には舞台を楽しむようなゆとりを感じる
このゆとりが舞台を膨らませる原動力になっていたような気がする
後藤自身は
ヌートリア出現時の妖精の禁じ手をのぞけば
ちょっとした良い話を一席という感じで出てきた印象で
それはうどんでいえば一振りの七味のような
味わいをだすのに成功していたと思う
まあ、ただでは終わらないというか・・・
隠し味もプロのわざと言うか・・・
最後のシーンによって
観客の見終わった印象が
すっと変わったというか透明感が生まれた気がする
後藤の発想の優劣は色々と意見があるのだろうが
それをしっかりとひとつの形にして
客席の2時間をぱんぱんにまで満たしたことは
ここにはまぎれもない事実である
観客は満たされるべき時間を求めて劇場に足を運ぶのであり
その意味で後藤は本当によい仕事をしたと思う
本当に良い仕事とはこのようにさりげなくしっかりと
行われるものなのだと思う