| 日時 | 劇団名 | タイトル | 会場 |
|---|---|---|---|
’05.6月11日 マチネ |
壱組印プレゼンツ |
種の起源 |
Theater Tops |
作・演出・出演:大谷亮介 出演:
|
この文章にはいわゆるネタバレがあります。ご了承のうえお読み下さい
人類の歴史に沿うように5つの作品が構成され
愛や恋の全体として大きなものが見えてくる趣向。
昔から大谷亮介得意のやりかたといえるかもしれない
正直いうと一番最初の作品は
シーンを観終わったときちょっと企画倒れの印象があったし
三番目の作品はちょっとやりすぎてるなという印象だったのだが
でも芝居全体を観終わってみると作品全体の中ではきちんと
存在価値があって感心させられる
あくまでも勝負はトータルで行われているのだ
二番目、三番目の作品はまだ歴史に対するイメージへの
借景という感じが強い
人を恋いうる気持ちをコントロールできないことの悲喜劇から
性こそ中心と考える(やりたくてしょうがない若さとでも表現するのだろうか)
価値観の具象化
さとうこうじの演技がぶれずにしっかりとしているのがよい
どこか面映い気持ちを客席に与えつつ
しかもきちんとピエロのおちを引き出していた
三番目の芝居についてもうすこし付け加えるなら
西牟田恵の芸の広さの片端が存分に示された作品であった
彼女は感情の出し入れが非常にうまく
感情を消して演技をすることも感情をしっかりと出して演技をすることもできる
いいかえれば物語の風景のような人形になることも
物語の想いになることも出来る女優であり
三番めの物語では見事にその両面を表してみせていた
道化芝居の色を生かしながら
18歳の女性の生々しい性への望みを表現する
彼女の演技の構成力のようなものに息を呑んだ
四番と五番目の芝居は日本の現代劇
四番目の芝居は田舎の小さな社会が
五番めの芝居は葬式の家族が描かれている
四番めの作品は2000年の歴史を誇った桜が
地方の町おこしのなかであっさりと滅びてしまうところがミソなのだが
ここでも
西牟田恵の演技がしっかりと生きる
彼女の演技は物語の風景の部分を作っていく
田舎町で当たり前に流れていく時間が
彼女の演技で見事に浮き彫りになるのだ
生活のかおりがしっかりと浸潤されている彼女の演技は
他の役者達の生活のにおいを一層香りたたせ
2000年の桜が朽ち果てさせるおろかさと
生活のなかでの必然性の対比がしっかりと観客に伝える
そして五番目の芝居。
彼女のゆっくりとした語りはどのように表現すればよいのだろう
それはかつて大谷亮介が演じた小林秀雄の雑談に匹敵するものであった
淡々としているのに
老女が歩んできた人生をすべてを包み込んだような質量のある語り口
周りの雑談など意に介さないような枯れ方を
どうして彼女はあんなに素敵に演じることができるのだろうか
有史からのバクテリアの歴史を
ぬかづけきゅうりのひとかけらに絡める大谷脚本もすごいが
そこに十分な説得力を持たせた西牟田の演技は
それまでの彼女自身のすばらしい演技まで忘れさせてしまうほど
観客をとりこんだ
カーテンコールで拍手をしながら物語を鳥瞰するとき
一つ一つの木の向こうにある森がみえて
それぞれの西牟田の演技の秀逸さにあらためて驚かされる
もちろん、他の役者の仕事があるから
西牟田の仕事がしっかりと生きている部分もあるのだが
逆に考えると舞台の空間の調和の範囲内で
自分の演技を作りこんでいく西牟田の才能は他にあまり類を見ない気がする
草野、水内、藤崎、大塚といったところも
非常にしっかりと芝居をしていて
観客をやわらかく、しかも強く舞台に引き込んでいたのだが
西牟田の演技にはそこをひとつ超えるなにかがあった
大谷亮介も今回は控え気味で
ますますそれが西牟田を生かすことになったのかもしれないが・・
森の大きさと彼女の演技の秀逸さに
ちょっと満たされすぎた土曜日の午後であった