| 日時 | 劇団名 | タイトル | 会場 |
|---|---|---|---|
’05.8月21日 |
劇団健康 |
トーキョーあたり |
下北沢本多劇場 |
戯曲・演出・音楽 ケラリーノ サンドロヴィッチ 出演:
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この文章にはいわゆるネタバレがあります。ご了承のうえお読み下さい
全体感で今回の公演をみると昨今のケラの作品のなかでは比較的散漫に作られている印象がある。たとえば物語の起承転結や機微を感じさせるような伏線の張り方に彼流の緻密さがあまりみられない。物語のなかに包括して観客の心に浸潤するようなトーンもそれほどないし、見終わった後の観客へのインパクトもそれほど強くはない。
それでも2時間20分の上演時間が希薄に思えなかったのは、一つ一つのシーンに対する味付けがきちんとなされていたからだと思う。それぞれのシーンにきちんとした仕事がなされているのだ。
劇団健康時代のテイストを十分に感じさせるものから新しいものまで、様々にちりばめられたウィットや笑いのセンスは、質量ともに十分で、観客を飽きさせることがない。物語にはいくつかの系列があってそれらがより糸のようになって一連のストーリーを形成していくのだが、観客にとっては物語などある意味どうでもよく、むしろそれぞれの系列を秋が来ない程度に楽しむという感じで舞台に見入ることになる。
たとえば、赤い黒子の一連の動き、物語にとって必然ではないのにもかかわらず舞台の空間にしっかり刺さりこんでいる。ケラによる他劇団いじりはある意味ナイロンの力が自他ともに認められて言うがゆえに笑えるのだが、同時にケラが自らの笑いのなかにある悪意をさらに偽悪的に表現したものとして興味深い。この手の笑いをとる対象を選んだ上でのたっぷり毒を含んだ自虐的な手法はやっぱりモンティパイソンの影響を感じるが、それをここまでしっかり見せてもらえるチャンスってあんまりないような気がする。老人の夫婦の写真による表現も一時期よく見られたやり方だが、これはちょっと洗練されすぎた感があった。
ただ、ケラらしいのはそれらのなかでだらしなくはみ出しているものはひとつとしてなく最終的には、全てが何らかの形で先ほどのより糸最初束ねられていること。
だから、観客は終わったときに自分が過ごした時間を振り返ってそこに大きな実をつけた大きな木を見上げるような気持ちになることができる。
より糸にぶら下げられていた実の個々についていえばクオリティはとても高かったと思う。それはおふざけの部分も相応にあったのだが、おふざけのクオリティが高いがゆえになにかおふざけ自体が出世してしまったような印象すらうける。たとえば暗転のダルマとか・・
まあ、ケラ自身が意識しているかどうかは別として、観客としては多彩な変化球投手にほんろうされているようなもので、しかもストレートまでが非常に威力があるとなれば、観客はとりあえずは舞台上に身をゆだねてやってくる笑いをそのまま楽しむしかないのだが・・・。
なによりも、ケラの紡ぎだすちょっとゆがんだ空間がのびのびと演じられていたことが好感触で、それゆえガン告知や殺人にもつながりかねないストレートな部分がしっかりとした笑いに繋がる。役者達にも本当にゆとりがあって、複数の人間がひとつの役をつなげるという表現がきちんと空間上になりたつのはひたすら彼らの演技力の賜物のだとおもう。
実はこの物語の笑いから透けて見えるものは必ずしもここちよいものではない。笑った後にそのこっけいさが心からからっと吹き飛ぶわけではなく、心のどこかにちいさな引っかき傷を作る類のものが多い。ただ、あくまでも、それが大きな刃物に昇華していくわけではなく、観客をちょっと不器用に包み込む感じなのが健康流なのかもしれない。
「消失」などに見られるケラの表現と比べるとそんな気がする。ただし、その軽さのようなものは同時に芝居全体の観客に対する浸透圧を高めるような効果がある。なにかをぶつかってくるというのではなく、なにかがしみこんでいくような感覚、ちょっといけない物質を摂取して体が蝕まれていくときの快楽・・・、といえば言い過ぎかもしれないが・・・。
なにか麻薬のようなダークな快楽を与える要素をケラは持っていて、今回のような舞台により彼が封印していて、それでも個々の作品に染み出てしまっていたそれらの要素がケラ自身によってかなり解放されたような印象を受ける。
役者はよかった。このレベルの役者になるとお互いがお互いのクオリティを高めていくらしい。新村量子の存在感は横町慶子が持つ線の細さまでカバーしたし、手塚とおるとみのすけはお互いのパワーを見事に調整しあっていた。大堀こういちや藤田秀世の舞台上の重力間もここちよかった。犬山イヌコやちょっと役不足にもかかわらず存在感がしっかりあったし、三宅弘城のパワーはしっかりと舞台を動かしていたと思う。一番感心したのは峯村リエで、彼女の個性や演技の切れはこれだけの役者たちのなかでもしっかりと際立っていた。彼女はもっと主役を張るべき女優だと感じた。
KERAの出演はお愛想ということで・・・。
まあ、作り手のモチーフを十分理解したかどうかは、楽しめたことは間違いないし、満足もした。ただ、ちょっと想いをはせる部分が残って・・・。それはケラ自身が実はウェットな部分をかなり持ち合わせていることの証なのかもしれない。彼の作品を見るたびに感じるある種の感覚、それはナイロン100℃であろうが外部の作品であろうが、健康であろうが・・。彼ほどの作劇術を持つものは逆に作品のなかに彼自身を消し去ることが難しいのかもしれないと思う。それは前述のようにシリアスな作劇をしても笑いに隠そうとしても、消えることがない匂いのようものだろうし・・・。
観客は健康を彼の匂いを含めて十分楽しめたということになるのだと思う