| 日時 | 劇団名 | タイトル | 会場 |
|---|---|---|---|
’05.9月04日 |
五反田団組 |
「ニセ」S高原から |
こまばアゴラ劇場 |
原作:平田オリザ 演出・出演 :前田司郎出演:
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この文章にはいわゆるネタバレがあります。ご了承のうえお読み下さい
青年団の「S高原から」は残念ながら未見なので、本家との比較はできないのだが
ニセという名前のひびきとはうらはらに、けれん味のない豊かな表現に満ちた非常に趣き深い作品であった。
戯曲自体の巧みさにも舌を巻いたのだが、個々の役柄を真摯に演じていく役者たちが観客を捕らえて離さないのだ。繊細な台詞回し、割り切れなく存在する空白の時間、重なり合いながら色を変える会話。まるで無機質な空調のように、統率されたトーンのなかで、個々の役者がその統率に紐をかけながら、緩やかに舞台の空気を揺らしていく。統率に縛られるのではなく、統率をすこしずつ自分の色に塗り替えていくような・・・
物語の背景にはホスピスにちかいような病院の死の影があるはずなのだが、現実の生活のなかでは、死をどこかで見つめながらも生が支配する時間が、観客と共にではなく観客の前や後ろを歩きながら、一方で確実にしっかりと浮かび上がってくるのだ。
等身大というのはこんなことを言うのだろうと思う。青年団などの舞台に比べて、ずっと統一感が薄いのに、空間の匂いがしっかりとあって・・・。そのなかの揺らぎやそこから観ることのない外という舞台の向こう側の温度までが、舞台全体にじっとりと伝わっていく。
それはご飯とおかずの定食を食べるというよりは、具がとろとろになったスープを味わう感じ。にんじんやジャガイモやお肉はしっかりと存在があるのに一方で渾然のテイストに飲み込まれている。でも、それこそがふっとそこにやってくる死を見つめる岸辺に吹く風の姿なのだとも思う。
一方で死が川向こうから手招きをするのを見つめる必要がない者達の優しさ。優しさの向こうにある意図しない残酷さが、ビターなスパイスとなって味を締める。緊張感がないことの緊張感・・・、場内の暑さが高原の夏の終わりの温度と同化するとき、自分の呼吸が舞台とともにあることに気づく。その時点で役者たちの勝利・・・・。勝ち負けという話でもないのだが、少なくとも観客は役者たちの手のひらの中にある。
役者の力には若干の優劣を感じたが、それは水準を越えた中での上下であった。内田慈のしっかりと自分の内側を滲ませるような好演にまず目が行ったが、演技のやり取りをした大島怜也にもしっかりとしたベースの力を感じた。また、安藤玉恵は彼らよりさらに一段力量が上で、出番的には少なめだし、ある意味物語の主を演じるというよりは落ちを作るような役回りなのだが演技のメリハリや舞台上での存在感は観客を瞠目させるに十分であった。力や感情がまっすぐに表れるのがよい。能島瑞穂も短い演技ながらキャラクターをしっかり演じる能力を感じた。黒田大輔、大倉マヤといったところには、よい意味で演技を流すようなうまさを感じる。坊薗節子には舞台と客席の間の緊張感のようなもを溶解させるだけのゆとりがあった。
たった90分の芝居であったが見終わった後結構消耗している自分に気づく。それは舞台からの訴えかけの強さに負けないで舞台を見続けることへの代償なのだと思う。やり方はそれぞれでも何かを表現し訴えかけようという意図に満ちた役者たちの芝居、受け止めようとすればそれだけ観客はなにかを消耗していくし、言い方をかえればその消耗こそがこのような芝居に足を運ぶ醍醐味なのだとも思う。
2000円の入場料が申し訳ないくらい、演劇をしようという役者たちの熱を感じえた舞台であった