| 日時 | 劇団名 | タイトル | 会場 |
|---|---|---|---|
’05.12月23日 |
Impasse |
あんずとすしお |
新宿ゴールデン街劇場 |
| 作・演出・出演 湯澤 幸一郎 作・出演 新谷真弓 作・政岡泰志 |
この文章にはいわゆるネタバレがあります。ご了承のうえお読み下さい
7つの作品のうち新谷真弓の連作「あんずとすしお」が3つ、湯澤幸一郎の作によるものが3つ、政岡泰志の作品がひとつという構成で間に短い映像が挿入される。
映像は作者とタイトルのみを表わすものもあれば前の物語をフォローするような映像もある。
7つの物語のうち6つに共通しているのは男女のベクトルの違いのようなものがベースにあること。最後の作品のみ男女のベクトルが一致して・・・。
湯澤幸一郎の手になる3作品にはある種の性的制約や倒錯が存在する。
男女が役割を逆転して演じられた「歌姫と鍵盤奏者」、
少女を人形のように扱うところから物語が放たれる「Candy Man」
さらには隷属されうる環境下での堕ちて行くような兄弟間の愛を描いた「兄妹島」。
それぞれの作品にはどこかに醒めたような視点が感じられ、なおかつ重く甘美な罠にも似た慰安が含まれている。
「歌姫と鍵盤奏者」は男女の役割を逆転させたことで年老いたものと若さ、さらには純粋さと堕落の行き着く先の共通性のようなものがしっかり表現できていた。湯澤が歌に対しての十分なテクニックを持っていることが武器になり、酒場の自堕落なかおりがしっかりと劇場内に膨らんだ
男と女の性によるベクトルの違いが非常に明確に具現化された、「Candy Man」、
この耽美な世界はある種の美的なオブラートの内側にあるような感覚を観客に与えながら、
一方では男女それぞれの立ち位置におけるおたがいの占有についての感覚を鮮やかに表現してみせた。
前半の新谷の無表情にはある種の深遠な意思が感じられ、それが物語の裏側に当たる後半の彼女のおもちゃのような声での朗読の切れ味を十二分すぎるほど高めていた。
さらに、男女の愛が同じベクトルをもって満ちると燃え尽きてしまうという暗示が最後の「兄妹島」でなされることによって、
その中間で浮遊するリヒドーたちが生きる範囲までがしめされて・・・。
赤裸々に語られる湯澤の皮膚の内側にある炎が、自らの暗部ではなく、
中性的な演技が多い新谷の女優における女の部分を、蝋燭のようなほの暗さで浮かび上がらせたところに
湯澤側からみたこの男女二人芝居の果実が存在するように思えた。
一方で新谷真弓作の「あんずとすしお」で、ふたりは凝縮された湯澤の世界とは対象的に日常に拡散したインモラルな空気を場内に撒き散らす。湯澤と新谷の語り口は確信犯的に性悪な雰囲気を作り出す湯澤作品の対象上にあって
本来グレーに染まっているものを偽善的に薄めていくような雰囲気を醸成していく。
兄妹という感覚を私は理解できないが(一人っ子なので)、
兄弟間の愛情もしくはその愛憎について実直かつ等身大に作り上げられた物語は、
湯澤の作り出すさまざまな非現実を異なる世界に閉じ込めていく。
卑近で具体的な生活のパーツは
湯澤のデフォルメされた欲望が
裏側で新谷が創出した現実からデフォルメせずに表現された想いを映し出したものに過ぎないことを
観客に知らしめる。
この二つの物語群の関係は非常に興味深く、観客をしっかりと捕らえて見せた。
さて、残ったひとつの物語、2話と3話の間に挿入された政岡泰志作の「小二極道血風録」は、ある意味コミカルな作品であるが、そこには極道の持つ秩序が存在している。インモラルであることの対象におかれたこの作品は、湯澤のステレオタイプな極道の世界を新谷の非日常な存在が崩していくという構図でけっこう笑えたのだが、同時にそれは、湯澤の物語にも新谷の物語にも、
あたりまえに登場している構図であることに思い当たる。
この物語が挿入されていることによって、湯澤の物語に登場する世界達や
新谷の物語にある世界の座標軸とでも呼べる感覚の絶対性が
ずいぶんとあやふやになった気がする。
観客にとって虚構は虚構、現実は現実という距離のとり方が、
この不可思議な物語を挿入されることによってかなり難しくなり、
結果として湯澤の物語にある虚構のまみれた真実や、新谷の物語に隠れたあいまいに隠された真実が、
渾然のなかで浮かび上がってくる。
。Wカーテンコールのときに、「やりたいことをやりました」と新谷は話していたが、
「やりたいもの」を表現するための仕組みはしたたかに出来ていて
チャレンジとも呼べる試みにも満ちているこの作品群を私は秀作だと感じた。
もっとも、それがこの作品のクオリティが満点であるという意味ではなく
まだ、詰めたり磨いたりできる部分はたくさんあるような気がしたことも事実ではあるが・・・
一番感じたのは、二人の間に溶け合う部分の濃密さと離れる部分の細やかがもっと強調されていても
良かったのではということ・・・
演劇は観客の想像力を利用して構築する世界が山ほどある表現だが
劇場が今回のように小さいことにより観客が
大きな力で想像できる部分と想像でカバーできない部分が
一般の劇場と若干異なる気がする。
詳細な部分にごまかしが効かないというか・・・
それゆえ、湯澤や新谷の演技にももっと突き詰めたような精密さのようなものがないと
彼ら自身が本来意図していたであろうレベルまでの濃密さと淡白さが
舞台にでてこないのではあるまいか。
演技自体のクオリティがかなり高いことは認めるのだが
さらに重箱の隅の残り物までつまみ上げるような演技の構築が
この芝居をこの環境で演じるには必要なのだろうし
そこがさらにつまっていればこの芝居の印象がさらにしっかりしたのにとすこし残念ではあった。