| 日時 | 劇団名 | タイトル | 会場 |
|---|---|---|---|
’06.2月10日 |
Bunkamura プロデュース |
労働者M |
東急文化村 |
作・演出 ケラリーノ・サンドロヴィッチ 出演 堤 真一・小泉今日子・松尾スズキ・秋山菜津子 犬山イヌコ・田中哲司・明星真由美・貫地谷しおり 池田鉄洋・今奈良孝行・篠塚祥司・山崎 一 |
この文章にはいわゆるネタバレがあります。ご了承のうえお読み下さい
労働者Mを上演するにあたって、ケラリーノ・サンドロヴィッチ(以下ケラ)は前説を用意した。そうでもしなければ、観客が彼の作劇についていけないと考えたのだと思う。
実際のところ芝居が終わってみると、その前説はよく出来ていて、芝居の全体構成を端的に表わしていた。しかし芝居の全体構成がわかったからといってこの芝居を理解したことにはなるまい。それぞれのシーンが持つ意図や表現したいケラの中のイメージに観客のフォーカスが合わないとなかなか難解な芝居ということになるのだろう。
基本的にふたつの物語はある程度の時間的制御を持って提示されるのだが、必ずしも万人に共通の時間や空間的制御には従っていない。舞台が表現する世界の秩序にしたがっているだけである。時間だけではなく空間までがまるで二色のより糸を見ているようにからまりあってその舞台に提示される。それは、ケラが自らのなかに存在する表現の衝動を、ひとつずつ切り分け整理して、観客に具象化し提示していくのではなく、彼のなかにあるままの姿として具象化しようとしているようにも思える。
結果として、ケラの提示する舞台空間を、自らの世界の秩序にとりこむ形でシンクロさせている観客には時間や空間や理解のうめられない差異にたいする混乱とストレスが訪れる。しかし自らの秩序に世界をとりこむのではなく、舞台上の世界の外側から自らの世界をスクリーンとして舞台上の出来事をながめてみると、そこには現実よりはるかに現実を髣髴とさせるなにかが現れる。3Dの画像が突然見えたような驚き。舞台との観客の同化へのロジックは常と異なるのだが、ロジックをみつけた瞬間そこにはエッジがしっかりと立った舞台上の現実が観客の前に存在するのだ。
構築した世界を支配し構築された世界に支配されるとき、あるいは構築された世界が崩壊するとき、現実はまがまがしいイメージのままそこにある。構築した世界における秩序の安定は現実の不安定によって揺さぶられながらも一体化するわけではなく、矛盾しながらもそれだけで行き詰るわけではない。独立した存在でもなく同一の存在でもない世界には時には欠損さえおこる。
こんなにリアルになまなましく妄想と現実のより糸を表現した演劇を私は知らない。
それはまっとうな演劇手法をとりながら、一方でピカソやダリが築いた超リアリズムをも想起させる。ラディカルな視点を有した表現であり、前説のようなためらいを持ちながらも、まさにケラが踏み出した新たな表現の始まりであると感じた。
もちろん、それゆえ、観客がこの手法に慣れるためにはすこしだけ自らの感性を変える時間を要するのもやむをえないことなのかもしれない。前説はその観客が自らの視点を変えるための導入剤のようなものであったともいえる。
役者としては堤真二のできがすこぶるよい。彼のメリハリをしっかりとした表現こそがケラの表現意図を具現化させる一番の力になっていたと思う。
秋山菜津子の演技も目を引いた。彼女の演技にはパワーが常に存在し、観客は身をゆだねることができる。山崎一や犬山イヌコの演技には見るものをしっかり舞台上においてくれるような円熟があった。
松尾スズキには彼にしか表現できない世界がある。作家としても芥川賞の候補にまで上り詰めた人ではあるが、役者としても演技の上でも彼にしかつくりえない空間があることを証明して見せた。
小泉今日子は、演技に秀逸な部分が多いものの、深さにむらがある。弱い演技と強い演技の中間にもうすこし柔らかさがほしいところである。
明星真由美は4年ぶりの舞台とのことだが、舞台力のようなものがまったく衰えていないのが嬉しかった。最初の部分の演技の堅実さってけっこう大切だと思う。
篠塚祥司・今奈良孝行は演技にしっかりとした重みがあったし一方池田鉄洋・田中哲司の演技はエッジが立っている感じで、とても魅力的であった。舞台上のトーンを作る中でかれらの果たした役割は大きい。田中哲司は「夢の中へ」という映画での演技を見たが、舞台の演技は映画にくらべてずっとシャープな印象であった。よい役者だと思う。
貫地谷しおりには独特のトーンがある。強烈な色ではないのに、その存在が舞台に埋もれないのだ。ちょっとわくわくするような女優の出現である。
3時間半の上演時間は、中途半端な快適さのシアターコクーンのシートには長いなと感じた。しかし、その長さがなければこの物語の質感はきっとつくれなかったのだろうなとも思う。
正直なところ観客を疲弊させるものがてんこ盛りの舞台であったが、それを上回るだけの精神の高まりをもって家路につくことができた観客もおおかったはず。
結局、新しいテイストを受け入れるためにはそれだけのパワーのようなものが観客にも求められるということかもしれない。