日時 劇団名 タイトル 会場

’06.3月05日 

ポツドール

夢の城

新宿Theater Tops


脚本・演出 
三浦大輔
出演

米村亮太郎・名執健太郎・仁志園泰博
古澤祐介・鷲尾英彰
安藤玉恵・佐山和泉・小倉ちひろ

この文章にはいわゆるネタバレがあります。ご了承のうえお読み下さい

劇評


stage review 2006

評価

★★★★★★★★★☆

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ポツドールの新作には台詞がない。

そこには動作とテレビなどの音と出演者が発する音が存在するだけである。台詞がないことは個々のディテールを隠す。隠したものが存在する物語からは逆に透けて見えるものがある。それは重くけだるく流れていく時間の根底にある苛立ちと安定のカクテルのようにも思える。

 

導入部分、ベランダ越しにその部屋を眺める趣向が、観客のポジションをしっかりと明示する。深夜2時に近くの高速を走る車の音が響く中、繰り広げられる光景は、良識のある人間には眉をひそめたくなるようなもの、人前で平然とセックスを繰り広げる男女、それには知らんふりでゲームに興じる男。陰部をさらけ出して平然とあるく別の男。さらには疲れ果てて帰りつき服を脱ぎ捨て倒れこむように眠ろうとする女

そこには隔絶した世界で起こる自分から切り離された現実がある。

 

それが、次のシーンでは時間の設定が進み、同時に観客は室内に引き込まれて、その光景をながめることとなる。

朝、眠りの余韻に引きずられながら、それでも何人かは目覚めて部屋を出て行く。でかける支度をしながら仕掛けられたセックスを楽しむ女。だまって出て行く男。テレビの番組と妙にずれた時間の流れが観客の視点を日常にひっぱりこみ、そのすこし淀んだ空気に観客を浸していく。
それにしても、日常のテレビの音声の使い方のなんて秀逸なことか・・・。「愛の渦」の最後の
シーンでも使われた手法であるが、テレビの音が相対的に流れる漫然とした部屋の時間に対する
絶対軸として部屋に響き渡る

 

時間が進み、それに応じて部屋に流れる空気が時間に応じて多少変わっても、相変わらず妙に安らいで気力を吸い取るような空気が絶えるえることはない。着けっぱなしのテレビから流れる情報はチャンネルを変える者の価値観を表現しつつも猫の目のように代わり・・・

観客は次第に自らがその部屋の空気に浸っているような錯覚に陥る。

 

しかしながら、ただ漫然と無秩序に舞台上の時間が流れているわけではない。

かつてのポツドール作品がそうであったように、この作品で構築される空間も、驚くほど緻密な演技や演出に満たされている。

役者たちもただ無駄に動作をしたり寝転がっているわけではない。
寝転がっている役者はしっかりと寝転がっている人間の物語が語っていく。
生理用品を装着し、それを気にしてお尻を押さえながら、一方でセックスをする女性もしかり、ひたすらゲーム続けている男性もしかり・・・、テレビのチャンネルを変えたり、漫画のちらしに合わせてヘアスタイルを変えようとする男の姿や、仕事に疲れて朝、ひたすら眠っている女性。台詞による出演者間の関係構築を排除している分、役者達がしっかりと演じる風景の集合体が一層緻密に部屋の空気を醸成していく。

部屋にいることの安らぎと部屋にいることのいらだちのようなものが、劇場全体をゆっくりと支配していく。

 

三浦大輔は、空気を伝えるという技に一層磨きをかけたのではあるまいか。一番すごいと思ったのは、夜、その部屋に似つかわしくない料理が行われたシーン、野菜を切る音のせつなさ。たどたどしい、まな板の音。食器をあらう姿。さらに続く犬のような食事の音と不完全なカノンの妙に美しい合体。そこには、この部屋にある生の確かさと慰安とどうしようもない閉塞感が見事に存在していた。また、彼らの間にある距離感のようなものも、このシーンでしっかりと浮かびあがった。

 

最後の嗚咽となぐさめの部分も漂うように心に残る。そのかすかな余韻のなかで

観客はしっかりと部屋の外に戻される。舞台上の時間には何の変化もなく・・・、ただ観客が自らの時間に戻されただけ。

 

役者たちの目立たないが勇気を持ったきっちり仕事と三浦大輔の仕事の緻密さに対する感嘆が
あとでゆっくりとやってきた。

岸田戯曲賞がフロックでないことを彼はさらなる挑戦のなかでしっかりと示したと思うし、
それを時には身を挺してささえた役者たちは、十分な賞賛に値すると思う