日時 劇団名 タイトル 会場

’06.4月29日 

ナイロン100℃

カラフルメリィでオハヨ                              〜いつもの軽い致命傷の朝

本多劇場


作・演出 
   ケラリーノ・サンドロヴィッチ
出演

みのすけ・犬山イヌコ・三宅弘城・大倉孝二
峯村リエ・廣川三憲・村岡美希・安澤千草
喜安浩平・植木夏十・眼鏡太郎・廻飛雄
馬渕英俚可・三上市朗・小松和重・市川シンペー・山崎一

この文章にはいわゆるネタバレがあります。ご了承のうえお読み下さい

劇評


stage review 2006

評価

★★★★★★★★★☆

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記憶にあるのは‘97のカラフルメリィだが、今回の作品はそのときに比べるとはるかにわかりやすくなっている印象を受けた。ケラリーノ・サンドロヴィッチ氏(以下ケラ)の一連の作品のなかでは芝居の構造も比較的直線的な印象をうけるし、作品の中に溢れる、父親への思いのようなものに衒いがない。

ケラの達観のようなものすらただよっていて
観ているものに迷いを生じさせない

 

気負いない台詞のユニゾンから始まる。
シンプルな導入部分の実直さ
タイトル部のソリッドで美しく野心的な映像。
役者達の演技も無理にテンションを上げたり演じ急いだりすることなく
物語全体をしゃかりきにくみ上げていくわけではなく・・・
ひとりの人間の最後に向き合うときの一種の凛とした厳格さ
そして消えていく命へのいつくしみが
役者ひとりひとりの芝居からゆっくりと染み出してくる感じ・・・

 

上質でときには不条理とも思える笑いにも、
きちんと意味のようなものが裏打ちされていて
物語を曇らせることも尖らせることなく客席を沸き立たせる

山崎一とみのすけの関係が物語のコアではあるが
それ以外にも心を捉える部分が非常に多い
たとえば山崎一と大倉孝二の会話の重さ・・・。
質量はないのにしっかりとした重さが
そこにあって・・。
あまりの出来のよさに息がつまるほど・・・

宗教の進入を許す峯村リエの心の負担・・・
大倉と峯村のこころのまじわりとすれ違い

しかし、そんな見せ場をまるでさらりと流すようなケラがいて・・・
そう、「労働者M」でとぎすまされた刃物のような表現を多用したケラとは
まったく異なるケラの想いがそこに存在している

 

3時間ちょっと、時間をまったく感じることなく、半分以上を笑い続けて、
でも残ったのがこの重さをもった透明感・・・。

ただ観客をくすぐるのではなく、
繰り返しやはずしなどの洗練された手法で真剣に笑いを引き出し
意外性にあふれるドタバタを回りにちりばめて、
逆に父親の死などありふれたことといわんばかりにして・・・

でも、厳粛に死をうけとめる姿は、
そのような喜劇のなかにこそはっきりと浮かび上がって・・・。
舞台がこっけいであればあるほど
ケラの想いはしっかりと浮かび上がるような構図がそこにあって・・・

やがて彼の達観が舞台上の最後の歌への繋がる

 

ケラの芝居をなぜ観客は求めるのか、
観客がケラに向かう主因というか
ケラ演劇が持つ求心力の本質が
この芝居には端的に現れているように思える

 

役者としては、前述したとおり、大倉孝二の出来が非常によい。
「消失」あたりから彼の演技は明らかに変わった気がする。
なんというか、ぼけから突っ込みへの転向というか・・・。

はずすことで間接的に表現していたなにかを、
彼は向かうことで鋭く直線的に表現できるようになった。

しかも、彼の表現には一種の崇高さと深さを感じさせるなにかがあって、
観客が本当に見たいと思える役者への変貌を遂げたと感じる。

峯村リエの安定感や村岡希美の安定感も今回再確認することができたし、
みのすけの包容力や山崎一の堅実さもこの芝居のフレームをしっかりと構築していた。
犬山・三宅が3時間道化を演じ続けてまったくぶれが感じられなかったことも、
観客を椅子にゆったりと座らせることに十分貢献したと思う。
馬渕・小松や他の役者たちも、
それぞれにベクトルの異なる仕事をきちんとこなしていて

全体として作品にある種の均質な透明感が生まれた。

 

あの冒頭の映像はきっと歴史にのこるほどのものだろうし、
この作品も、再演にもかかわらず、
きっとお芝居好きの語り草になるようなきがする。

なにげなく過ごす、満ち足りた時間こそ、
舞台芸術にとって一番得がたい至福の時間だし、
ケラはそれをしっかりと観客に与えたのだから・・・。


帰りの電車の中、ゆっくりとやってきた暖かい満足感が
この作品のクオリティをなにより証明していると思う