| 日時 | 劇団名 | タイトル | 会場 |
|---|---|---|---|
’06.8月27日 |
Parco Presents |
噂の男 |
渋谷Parco劇場 |
作・福島三郎 演出・ケラリーノ・サンドロヴィッチ 出演 堺 雅人・橋本じゅん・八嶋智人・山内圭哉・橋本さとし 猪岐英人・水野顕子 |
この文章にはいわゆるネタバレがあります。ご了承のうえお読み下さい
たぶん、この話の印象って観客が育った土地で若干別れるのではないかと思う。
私は関西で育ったので、この物語のテイストは妙に懐かしい。
そう、この物語は、小さい頃たまにテレビなどで見た泣いて笑って・・・松竹新喜劇などによくあるパターンだと思う。芸人同士の嫉妬、浮き沈み、人生七転八起・・・。
そしてその物語の間を埋めるいくつものくすぐり、ぼけ、つっこみ。最後は人情にお涙をいただいたいて、同時にここが主役の見せ所・・・、みたいな・・・。
多分、福島三郎自身がこの作品を演出したら、松竹新喜劇よりちょっとシニカルで、結末もほろりと物悲しい、いわゆる「おもろうてやがて悲しき」芸談しばいになるのではないだろうか。
しかしケラリーノ・サンドロヴィッチ(以下ケラ)は、物語にある嫉妬や浮き沈みにおおきなデフォルメをかけて、ケラワールドにその物語を取り込んでいく。
結果としてまるで作家・福島三郎の作った骨組みがまったく違う表情を見せ、観客に挑むことになった。これがまた、2時間30分休憩なしという長めの上演時間にもかかわらず、時計をまったく意識させないほどの面白さなのである。
この作品が成り立った勝因は、漫才やピン芸人の生き様のようなものに対して、ケラがデフォルメすることがなかったこと。さらに、カタストロフに至る必然性のようなものを松竹新喜劇の世界からそのまま取り込んだこと。これで観客の日常にある芸人像と物語の間に違和感がなくなり、観客は抵抗なくケラ的な狂気に身をおくことが出来るようになった。しかも演じる役者達は力に定評のある西日本出身の面々で、関西弁使い放題の舞台なのでその存在感たるや、ちょっと筆舌では尽くせないほど。ここにケラの性悪説的な人間描写がしっかりと加わって、非常にパワーのある人間描写を含んだ舞台が現出した。
しかし、一番キーになるのはあの漫才・・・。橋本じゅん・さとしによる中川家台本の漫才はすごかった、本物の漫才とひけを取らないくらいできがよかった。よい漫才には客を巻き込んでさらっていくようなグルーブ感があるのだが、かれらの芸にはそれに近いレベルのなにかがあった。
この漫才だけで、舞台上に構築された世界への観客の信頼度はわらぶきの家から一気に鉄筋コンクリートにまで昇格したように思える。また、この漫才のまっとうさが、バックステージの狂気を鮮やかに浮き立たせて見せた。マネージャーとの関係にも無理を通すだけのリアリティーを持たせたし、また物語の伏線のひとつとなる売れっ子漫才師と新人漫才師の微妙な関係の表現がしっかりと表現されたのも、この漫才のクオリティによるものが大きいと思う。
役者では、まずクレジットは小さかったが水野顕子の演技が非常に秀逸であった。彼女の役として持つしたたかさや狂気の出し入れがとてもスムーズで、必要な場面ではその存在感を一気に高めるような強さがあり、物語を大きく広げることに成功していた。
おなじく小さいクレジット組の猪岐英人も繊細さと骨の太さの二面をしっかり演じていて好演だった。この二人はアーノルドシュワルツェネッガーの役者さんだとのことだが、彼らのホームグラウンドでの演技も是非見てみたくなった。
他の役者は、それぞれに自分の持ち味を気持ちよく出していた感じ。橋本じゅん・さとしがそれぞれに表現する感情や心の暗部について観客はノーガードで打たれ続けるしかなかったし、八嶋智人の饒舌さもこの舞台では非常に良い方に働いていた。
堺雅人は声に非常に大きな特徴があり、自分が優位に立つ演技でそれが存分に生かされていた。ある種の快感を観客に呼び起こす声であると同時に、一旦狂気に転じたときの恐怖を増幅させる声でもある。また凛とした表情に劇場全体をぎゅっと締めるような力があるのもよい。山内圭哉は松竹新喜劇とケラワールドの橋渡し的な役割を見事に演じ切ったと思う。彼は舞台をさらうだけの力があるにもかかわらず、今回のように「2.5枚目」的な役柄でも非常にしっかりとした演技ができる。芝居の土台をしっかり支えられる優秀なMF的役者だと思う。
終わってみれば、ケラの世界。ただ、これほどにわかりやすく、なじみやすくケラの見るものが観客に伝わった作品というのもめずらしいのではないか。生でも煎じて飲んでも強い苦味ののこるケラの世界を、今回は松竹新喜劇ワールドというオブラードで包んで心地よく飲み干した感じ。ただ、難解さがほとんどない分、彼の持つ感覚の重さのようなものを無防備に取り込んだような感覚があって、満足感と切な悲しさのようなものが混在した帰り道となった。
これってケラ演劇のなかでもエポックメイキングな作品になるのだろうなと思う。ナイロンが持つ
匂いとは一線を画す舞台。