| 日時 | 劇団名 | タイトル | 会場 |
|---|---|---|---|
’06.9月02日 |
双数姉妹 |
トリアージ |
THEATER TOPS |
作・演出・出演 小池竹見 出演 今林久弥 佐藤拓之 小林至 中村靖 五味祐司 野口かおる 井上貴子 吉田麻起子 柏原直人 いけだしん |
この文章にはいわゆるネタバレがあります。ご了承のうえお読み下さい
最近の双数姉妹の芝居には骨がしっかりとある。今回の「トリアージ」も例外ではない。
舞台の幹となるしっかりとした構造があるので観客がゆったりと物語によりかかることができる。
構造を作っておいて、小池竹見はそこに壁をつくる。
時間の設定で舞台上の世界を分断し、言語でコミュニケーションを分断し歌で台詞に現れる現象と内心とを分けていく。
幹があるから、分断された空間や概念の位置づけが舞台と観客でひとつの世界に認識される。それぞれの心情を共有もできる。
分断されたものの間に築かれた橋が物語をしっかりと回していく。
これだけの複雑な分断にもかかわらず観客がまったく違和感を感じることなく、結果として見事に表現として機能しているところに双数姉妹の底知れぬ実力を感じる
ひとつの事象を分断して見せるという点では、双数姉妹自身、昔青山円型劇場で劇場の中央にカーテンを吊って接点を持つ二つの芝居を上演じて見せたという例があったが、彼らの才気や演技力はそのカーテンすら必要としなくなったということかもしれない。役者達の卓越した演技力は日本語をイントネーションすら変えず日本語と現地語の二つの言葉として表現するという小さな奇跡をあたりまえのごとく舞台上に現出させた
それにしてもなんとしたたかな設定だろう。
日本からはなれた小さな島の日本人と現地人の世界を言語で切り離し、その間を日本人と現地人のハーフの兄弟で繋いでいくのだが、彼らは自分達の事情や価値観、さらに心情に合わせて情報にフィルターをかけていく。それぞれの言語によって相手に悟られることなく語られていくそれぞれの価値観、二つの世界の真ん中にいる彼らの想い、心情、痛みがそのフィルターから鮮やかに浮かび上がっていく。
日本人には日本人の想いがある。開発業者や銀行員、現地人との価値観の違い、コミュニケーションが成り立たない苛立ち・・・。そして個々のプライベートな事情。
一方で現地人たちの事情、想い・・・。そこにある生活、日本人と付き合っていく上での理不尽さ。
そして、日本人と現地人の恋愛の行く末・・・。
ひとつずつの事象はシンプルで無理のない設定で観客に提示されていくのに、時間の概念で切り離された狂言回し役の二人の消防隊員たちが築く全体の枠の中に組みあわされていくと、深い陰影を持った物語として観客をじわりじわりと取り込みはじめる。
ひとり一人の事情、心情、あるいは組織、もしくは人種、それらは独立して存在するわけではなく、係わり合いを持ちながら、それぞれの立場のなかで誠実であることが観客の心にゆっくりと伝わっていく。
トリアージ(負傷者の治療優先順位の選別)というのは非常に残酷な言葉でしかも極めて合理的な概念である。その合理性の後ろには隠された現実がまるで大きな湖のように広く静かに横たわっている。
小池の脚本やそれを演じる役者たちは、その湖の姿を見事に観客の心に刻み込んで見せた。
佐藤拓之の役作りも本当に見事で、現地人の女性に心を奪われていくさまにしっかりとした説得力があった。日本人役としては小林至の演技にも深い味わいがある。現地人の女性が嫌うような底暗さと腹を据えた時の大胆さがにじみ出るような名演であった。いけだしんにも、佐藤を押し出すだけの力があって、小林や佐藤の演技に説得力を与えていた。
五味祐司と今林久弥の役には言語の扱いについて同じ難しさを持っていたが、ふたりとも観客が下を巻くほど見事にこなしていた。五味のここ何作かの安定感には目を見張るものがある。他の役者と絡んだときの力加減のようなものに観客を心地良くさせるような安心感が生まれている。今林の演技には、役が持つしたたかさの表現に卓越したものがあり、同時に台詞の外側に役が持つ心情をはっきりと浮かび上がらせるだけの説得力があった。結果、二人の演じる日本人と現地人の間に生まれた兄弟の関係、立場によって離れる心、一方で共感する心、それらを強い存在感とともに観客に焼き付けることに成功した。
井上貴子、中村靖、小池竹見の現地人組も後ろに背負っている生活が説得力を持つ演技がしっかりとできていた。井上の仕草や台詞に生活の疲れのようなもの、さらには行き場のない苛立ちのようなものが適度な強さで現れていたのがよい。中村は演じる役が持つ軽さが日本人から見たものであり、彼には彼の生活があることを、やはり適度な強さで表現して見せた。小池の演技も芝居の脚を引っ張るものでは決してなかった。悪くはなかったと思う。
柏原直人と野口かおるの演技、ある意味この芝居を救ったかもしれない。もしこの芝居に穴があるとすれば、ひとつはトリアージの作業概念と、二人の役が行っていることのギャップだと思うのだが、野口かおるの力技はそのあたりの違和感を個人芸で吹き飛ばしてしまった。柏原にもしっかりと野口についていくだけの力量があり時間という概念で区切られた緻密な物語をつつみこむ外側の枠をしっかりと支えきった。
あと、この芝居には歌が出てくる。歌によって個人の内心をストレートな芝居から切り分けようとしたのではと思われるが効果は多分意図した7割くらいではなかったか。
双数姉妹が歌を芝居に取り入れるのは初めてではない。一時期には女性ゴスペルコーラス隊のようなものすら擁していたように記憶している。そのころの歌は下手なプロがはだしで逃げ出すほどのクオリティであったが、今回は歌の品質にも若干問題があった。
一番うまく機能したのは佐藤と吉田のデュエットだったと思うが、品質てきには現地人たちが歌うドゥ−アップが一番高かったかもしれない。佐藤のソロ曲にも味があった。
芝居が終わって、少しだけ役者の方とロビーでお話をさせていただいたのだが、舞台とはまったく違った印象の方ばかりだった。演じるプロの力をしっかりと感じつつ、良質な芝居を観たときにのみ現れる余韻を楽しみながら家路についた。
きっと楽日あたりにはもっと進化しているに違いないこの芝居、まちがいなくお勧めである。