日時 劇団名 タイトル 会場

’06.12月9日 

チェルフィッチュ
エンジョイ 新国立劇場小劇場
脚本・演出 岡田利規

岩本えり・下西啓正・田中寿直・南波典子・村松翔子
村上聡一・山縣太一・山崎ルキノ・山中隆次郎

この文章にはいわゆるネタバレがあります。ご了承のうえお読み下さい

劇評


stage review 2006

評価

★★★★★★★★★☆

お芝居のPageに戻る
R-Club Topへ戻る

前作「三月の5日間」を見たとき、役者たちがそれぞれの視点から語る事実から突然広がる当たり前の東京の姿のあまりのリアルさに驚かされた覚えがあるのだが、今回の物語はすこし趣を異にしている。

そこに浮かび上がってくる物語には、前回強く感じたある種の鳥瞰するようなグローバルな視点も、ドミノ倒しのように現れる広がりも希薄で、むしろ、同一の職場という閉塞した世界を中心になんとなく内側に世界が膨らんでいく感じが強い。舞台後方のスクリーンに映し出される様々な情報、たとえば、労働経済白書のコメントやフランスの労働新法反対のデモの光景が具体的であっても、舞台上に紡がれる世界は「スクリーンに描かれた世界」の情報と完全に合わさることなく、それどころか常に生じているずれにあたる部分を輝きにして深さを増していく。登場人物ひとり一人の表現は前回に比べてどこか濃密になり、ある登場人物とその周辺の関係性を浮かび上がらせる視点はより鋭敏になっている。

 

動作に支えれて沸き立つように発せられる言葉、それは自らを客観視していることを確認するための儀式のような枕詞から始まって、自らを見つめ、自らの事実を紡ぎ始める。職場に存在する濃淡模様のような関係性、30歳前後のジェネレーションとそれより下の世代の感覚というか温度差のようなもの。ちょっとゆがんだ噂の流布。グレーな毎日にも光は差し影はできる。さらに彼らの感情は職場の様々な要素に揺すぶられる。生活感。恋愛感情。ネクタイを締めて働く同世代との距離感、苛立ち。

しかし、彼らの言葉の定義や所作だけが舞台上で彼らの全てを観客に伝えるわけではない。言葉を重ねるうちに言葉では表現され得ない役者たち自身が演技から滲み始める。語られる台本の内容、そこから観客が意味として理解するのは言葉から生まれた既定の事実でしかない。それは後方のスクリーンの情報と同質の世界。しかし、事実を語る役者の演じるものが事実を凌駕する姿がこの舞台には存在する。そのなにかは、まるでカーテンを突然開いたように観客を掴み取っていく。

 

たとえば、山中隆次郎がセルフでビデオカメラに向かって話すシーン。淡々とした口調で、時には機智にとんだ表現も交えて・・。彼の想いは言葉の意味だけを追っても理解し得ない柔らかく切なさを含んだ存在感を持ちはじめていく。
彼が語る姿はある時点から台詞が伝えるものをこえて、観客の前に存在する。舞台やスクリーン上に彼の言葉が描く現実が提示されるのではなく、現実という照明に照らされた彼の心情が浮かび上がることになる。彼の語る事実が舞台上のルールのなかで観客に伝えられるのではなく、彼が世界となり彼の語る事実が動作を従えて言葉の意味を超えて想いとなり、まるで魔法がかかったように観客の脳の中に浸透していく

3Dの立体画像がみえるように、舞台の絵面とまったくことなる感情が唐突に舞台に浮かび上がる。たくさんの言葉が舞台上で消費されているのに、その感情は言葉に戻らない。もはや台詞だけでは表現し得ない。色をどれだけ言葉にしてもそこに現れた色にはなりえないのと同じことだ。

 

山崎ルキノが、夜中に突然やってきたバイトの彼と別れる3幕のシーンはさらに秀逸で、観客は彼女の語る押さえ切れないような感情をまるで自らの感情として体験することになる。

そこに至るまでの事実が様々に語られ、男の想い(これも押さえられない切実さが言葉を凌駕して見事な表現だった)が演じられた後に、南波典子の言葉を引き継いだ山崎は、南波典子の転がっていく所作を借景に彼女の心情を露出させていく・・・。
観客はそこで南波の動きを観ながら、山崎の言葉を聴く。しかし、観客の心を占めるのは南波の動きでもなく山崎の言葉ではなく、あふれ出し劇場を包み込む感情、負であっても彼女自身の想いとして瑞々しくあふれ出すなにか、それは男側から溢れだすものと決して交わることなく、それしかも並立して存在し、観客の心に侵食していくなにか。

言葉の意味だけで二人を見るとき、そこにはステレオタイプに描かれた男女の姿しか見えないはず。
でも観客が当該のシーンで観た物は、ロジックではなく精神的触感を伴ったまた別の現実。

それは前述のとおり、言葉の下で個人が演じられるのではなく、役者達の演技が言葉の既成概念を凌駕した成果なのだと思う。個人が事実の前に存在するから、二人の苛立ちや白黒では割り切れない感情が観客にしっかりと伝わってくる。言葉を超えた感情を受け止めた観客の視点はもはや舞台の二人を第三者みることはできない。舞台に立つ役者と同じ当事者としてその思いを抱くことになる。劇場という空間で、作り手の表現が表層的ではなく、コアとしてしっかりと観客側に伝えられ具現化された瞬間である。

 

作品の流れからすると、4幕ですこしだけ、焦点がずれた印象はある。3幕までに構築された世界観がより鳥瞰されたような印象を持つことはできたのだが、そこに広がりのようなものを感じることはできなかった。「三月の5日間」で最後に感じたある種の普遍性というか客観的な視点がこの作品には希薄であったような印象がある。

しかし、この作品には前作にはない、深い部分での感覚の共鳴のような部分があった。

演劇のクオリディとしてみたとき、物語のスキーム、あるいは構成のメソッドは前作の方が秀逸だったのかもしれない。しかし、観客へ表現を伝える力のようなものは前作に比べて今回のほうが確実に進化した印象がある。

もちろん、伝える力を支えたのは、役者達の極めて秀逸な演技であり、彼らが賞賛を得るのは当然のことである。

 
PS:12月17日、再度観劇。場所がサイドから正面に変わって、かなり舞台への印象が変わった。
   特に4幕の違和感は正面から見ることで完全に払拭された。かわりに2幕のセルフビデオの
   印象が初回に比べてすこしだけ鈍くなった。
   この芝居、見る場所というのが案外重要なのかもしれない。