| 日時 | 劇団名 | タイトル | 会場 |
|---|---|---|---|
’06.12月16 日 |
マシンガン・デニーロ |
クロスプレイ | 世田谷パブリッシアター |
| 作・演出 間拓哉 菊池豪・松崎映子・古畑正文・信田素秋・米田万葉子 土田裕之・前田優次・内海詩野・船木美佳・伊奈稔勝 |
この文章にはいわゆるネタバレがあります。ご了承のうえお読み下さい
マシンガン・デニーロ初見。
物語にしっかりとした筋が通っており、観客の興味をしっかりとひきつけるだけの構成がなされてはいたと思う。冒頭のシーンがしっかりと最後のシーンに重さを与えていたし、近未来の物語であるにもかかわらず、物語の破綻がなく、観客は舞台に想いを預けて時間を過ごすことができた。
しかし、一観客として観終わってどこか表現がまだらというかまっすぐに入り込めない
感じたのも事実。
舞台から伝わってくるものが、その内容と比較してぐっと刺さってこない部分が多く見られるのだ。物語が描かれていても、物語を構成する要素というか根の部分がもうひとつ観客に共有されていないところが散見される。中心の部分はそれなりにかためているのだが、本来巻き込まれていかなければならない周囲の部分がラフな感じがする。結果として、舞台上の高揚感のようなものが観客にしなやかに伝わってこないのだ。
ステレオタイプな演技が多い。たとえばクロスと呼ばれる人々の存在に対して、自らの立場が明確になったあとも、周囲の人々の表現からは傍観者としての感情しか感じられない。役者ひとり一人は役割を果たすだけの演技力があり、舞台上でその力を具現化させているとはおもうのだが、中間色のような部分の表現が殺されているため、物語全体の奥行が限定されてしまうのだ。陰影のない写真に深さを感じられないのとおなじことだ。
奥行きのなさは場面転換の多さとあいまって物語の進行にともなう観客の想いのふくらみを阻害してしまっている気がする。輝きを持ったシーンをいくつも構築しているのに、その間の連鎖のようなものが弱い。言い換えれば、多分作り手が一番描きたいと思っているであろう部分だけが突然観客の共感を引っ張り出しているような印象をうける。もちろん、強引にでも観客の共感を引っ張り出せる能力というのはたいしたものなのだが、そこに連鎖が生まれない限り観客に与える感動の大きさにも限界があるのではあるまいか。
役者のクオリティは決して低くない。
松崎映子は器用さとしたたかさを持ち合わせた非凡な役者なのだと思う。すっと観客の興味をすくうようなテクニックもあるし、逆に観客を突き放すような演技もできる。演技の間口が広い。ただ、今回の舞台ではその器用さが周りの演技に自分を合わせるように働いてしまった気がする。能力的には役者達のなかでも抜きん出た部分がある分、もっと舞台全体を引っ張る方向に自分の能力を開放してもよい気がしたし、役的にも、もっと我侭に演じてよい役であるようなきがした。
菊池豪は感情のグレーゾーンのようなものを演じることができる懐の深さを感じた。好演だったと思う。
古畑正文、信田素秋は役をしっかり守った感じ。もっと自らの内側を表現するような演技をしてもらってもよいところを、恣意的に押さえていた印象がある、米田万葉子、伊藤ららはそれぞれに彼女達の物語を演じることには成功していたが、もっとはじけるだけの力を隠していたのではあるまいか。
土田裕之は役柄に徹していて見るものに安心感を与えていたし、伊奈稔勝も役柄として自分の責務を誠意を持ってこなしていたと思う。
シスター役の船木美佳には、演技にしっかりとした心情の弾力性というか裏づけが感じられて印象が強かった。彼女の演技には、松崎よりも地味ではあるがふっと場を切り取るような鋭さが内包されていて、それがこの物語のクライマックスにしっかりと生きた。
しかし、全体的には強さ弱さがデジタル信号のような演技が目立つ。ソリッドな印象を狙ったのかもしれないが、そのせいで芝居全体の質感がざらついていたような感じがした。
でも、この劇団は公演を重ねていくうちに、大きく化けるかもしれないと思う。
芝居を観ていると演じる側に内包された力を感じるのだ。もし、案内のDMとかをもらえたら、時間の許す限り観に行きたいと思わせる何かが感じられる劇団であった