| 日時 | 劇団名 | タイトル | 会場 |
|---|---|---|---|
’06.12月16 日 |
ナイロン100℃ |
ナイスエイジ | 世田谷パブリッシアター |
| 作・演出 ケラリーノ・サンドロヴィッチ |
この文章にはいわゆるネタバレがあります。ご了承のうえお読み下さい
6年前に観たときも骨組みのしっかりした作品だと思った。
というか、よくあれだけの作品を支えきったなという感じがあった。
今回同じ作品を観て、3つの過去と未来を渡り歩きながら
骨組みがさらに磐石になったことに感心した。
休憩を抜いても3時間以上ある作品であるにもかかわらず
しかもかなり破天荒なストーリーであるにもかかわらず
物語は豊かな情感すら湛えて演じられていく
物語の梁の部分がきちんと作られているのがよい
戦時中の上流階級のすこし退廃的な生活、
1960年代の芸の世界
1980年代、バブルに至る前の日本の小さな豊かさ
そしてバブルがはじけた2000年から近未来まで
それぞれの時代の薫りがしっかりと舞台から伝わってくるのだ
その間を繋ぐ糸にもねじれや絡みがない
さらに、当時の遊び心もそのまま
再演時に生かされている
冒頭の猫話や織田信長話から大倉孝二改造のカーナビの話等
時代が変わってもそのテイストは変わっていない。
スケールの大きさと描写の緻密さが
見事に融合した作品といえる
ただ、なんていうのだろう
役者がうますぎるのですよ。
正確に言うと主要な役者がさらにうまくなって
ちょっとぼけていた部分や触れていた部分まで
不必要なくらい完璧に修正されてしまった感がある
だから、きりっと引き締まった感覚の芝居にはなったのだけれど
観客にとっては流れが良すぎるというか、ちょっとしっかりしすぎたような感じがする
本当にしっかりとやるのではなく
もうちょっとヘタウマみたいな部分があってもよかったような・・・
初演からさらに、熟達した役者達のマジな演技は
いい悪いは別にして、時代間にただようくすみのような部分まで
クリアにしまったような気がする
芝居というのは不思議なもので
クリアでないことが必ずしも悪いことではないのだ
初演から完成度が増した分
なにか失ったものも感じる舞台でもあった
役者のなかでは、峯村リエと池谷のぶえの個性がやはり際立つ。
しかしそれ以外の役者のクオリティも高いこと
大倉孝二やみのすけ、先日「遭難」であれだけの怪演をみせた
松永玲子、長田奈麻、安澤千草、青年団の志賀廣太郎・・・・、原金太郎もすごくよい味・・・
男優陣では人の藤田、佐藤、加藤の客演も含めてようは綺羅星のごとくなのだ・・。
役者の実力を一番象徴していたのが新谷真弓。
彼女の作り上げていく当時の女性像、瑞々しく何よりその時間にしっかりなじんで・・・。
力がすっと抜けているのに、弱いわけではなくその時代の空気を滲ませる演技だった
でも、贅沢を言わせていただくと
この芝居にこの面子だと、役者の役不足を感じることも多い。
ラフな感触の時間帯においても舞台上での遊びが出来すぎているような感じになる
また、場がずっと安定していると、芝居のひっかかりがなくなってしまう感じがするのだ
パーフェクトな演技の積み重ねは観ているもののストレスを大幅に減じるが
ストレスを与えないと表現できないものもある。
柚木、喜安、喜増、杉山、松野、植木、皆戸といったあたりも
本当に安定してしまって・・・
結果何もかもがクリアに表現されてしまい
舞台のやわらかなにじみのようなものが消えてしまった気がする
なにか必要以上にはっきりくっきりの舞台なのだ。
時代の匂い、そして時間の流れと関連性、
さらには時間の因果と家族の生き様・・・
たぶんケラの意図は100%以上役者たちによってしっかり具現化されていたのだと
思う。それは天才的な作・演出家と与えられた役を簡単にクリアしてしまう役者たちの
世界。
でも、「過ぎたるは及ばざるが如し・・・・。」という言葉もある。
この作品はここまでクオリティをあげなければ
もっと柔らかく膨らむ舞台でもあるかとは思うのだ。
パーフェクトが褒め言葉になりえないのもまた、演劇のおもしろいところなのかも
しれない